白猫 

夕暮れは『オウマガトキ』といって、幽霊や妖怪に逢いやすいんだと死んだ祖母はよく僕に言っていた。逢ったら最後、引きずられていって帰れなくなるんだと。だからその時間に厭な感じがしたら、すぐに引き返しなさいと。幼稚園や小学校の低学年のころまでは鵜呑みにして僕は夕方を怖がっていた。けれどいつしか迷信と決めつけて、平気になった。

 けれど今、僕はそれをひどく後悔している。

 祖母の言葉は決して迷信ではなかった。ただし、訂正はある。それは『オウマガトキ』に逢うものは、幽霊や妖怪でなくて獣だったということだ。

 中学の帰りに友人の家に寄って、ゲームをしたことまではなんらいつも通りのことだった。ただその帰りに近道しようと、丘の上にある八幡宮に向かったのがまずかった。そしてさらにまずかったのは、八幡宮から聞こえてくる賑やかな声につられて階段を上ってしまったことだ。

 階段を上り詰めた境内では10種類ほどの獣が20匹以上入り混じって群れをなしていた。僕が顔を覗かせると、全員がすぐさまにこちらに気付いて身構えた。

「本当に厭ンなるったらないよ!」

 僕の正面に座っていたタヌキが言った。見た目ではわからないが、声から判断するにメスらしい。しかも結構歳もとっている。

「とうとうここまで人間に邪魔されるようになったなんてねぇ!厭な世の中だよ、まったく!」

 戸惑って言葉を返せないでいる僕に、タヌキは大きな尻尾で砂煙をまきあげた。

「ほらっさっさと出ていきなよ!アンタたちみたいな人間が来る場所じゃないんだよ!ほら行った行った!」

 タヌキは歯を剥き出しにして、僕を威嚇した。もちろん僕は境内の光景を見るなり、逃げ出したかったのでその言葉は渡りに船だった。僕が踵を返そうとしたとき、後ろで別のソプラノ歌手のように高い声が上がった。

「良いじゃないか、タヌキの姐さん。良い機会じゃあございやせんか。せっかくだからこの御仁にも会議に参加していただきやしょうよ」

 どうやら話しているのはタヌキの傍にいるネズミらしい。小さな髭がもぞもぞと動いている。

「いやね、アタシも人間さんには言いたいことが沢山あるんですよ。この間も娘が1匹、人間のしかけた腐ったチーズにあたってやられちまった。頭の良い子だったよ。人間が罠に使った餌ならそこそこに良いものだと油断したんだね。罠をしかけるのは良いけれど、せめて新しい餌を置いて欲しいモンだわね!」

「それはアンタの娘が卑しかっただけじゃあないかね。私たちならそんなことは絶対にありえないよ。ようっく匂いをかいで確かめてから食べるからね。これからはちゃんと子供に教えてやるが良いよ。食べ物をみてもすぐにかぶりついちゃ駄目ってね」

 すっと僕の足許に痩せた白猫が現れた。きっと美人の部類に入るだろうと思われる毛並みとスタイルだった。人間で言うならモデル体型だ。

 白猫の辛辣な言葉にネズミは長い尻尾を立てて怒った。しかし白猫が一度喉を鳴らすと、すすっと群れの中に身を隠した。白猫はそれを見届けてから、僕を見上げた。僕はあっと声をあげた。その紅い眼に見覚えがあった。

「お前、この間ウチの植木鉢をベランダから落とした奴だね」

 僕がそう言うと猫は髭を一度大きく跳ね上げた。しかしそ知らぬ様子で僕の足に擦り寄った。

「何をおっしゃってるんです?私はあなたのお宅なんて知りませんよ」

「煮干は美味しかったろう?」

「ええ、とても!あれは絶品でしたとも!にゃッ!」

 僕は調子に乗った白猫の首根っこを捕まえて持ち上げた。遠くでネズミの喜ぶ声がした。白猫は尻尾をくるんと後ろ足の間から身体に巻きつけ、その先と前足の3本で僕の腕を振り払いにかかった。けれどどの攻撃も僕まで届かなかった。

「ほら、正直に言ってごらん。怒りゃしないよ。あれは母さんの鉢で僕には関係無いからね。むしろ誉めてあげたいくらいさ。おかげで観察日記なんてつまらないものをせずにすんだ」

「ええ、確かにあのマーガレットの鉢を落としたのは私です。ただね、これだけは言わしていただきますよ。あれは過失です。場所が悪かったんですよ。あそこは私たち猫の通り道ですからね」

 白猫は地面に下ろしてやると、人間が土下座するように伏せて頭を下げた。尻尾までしょげてまっすぐに伸びていた。反省の意志を示しているらしい。

「私たちにだって道はあるんですよ。例えば、ほらそこのベンチの裏の細い通路とか。ああいうところは獣の道ですよ。そしてお宅のベランダの桟はその道だったんですよ。そこに植木鉢なんて置くんですから、こちらとしても……」

「もう良いよ。さっきも言った通り、何も責めようと思ったわけじゃあないんだ。ただ君のその眼の色を憶えていて声をかけただけだ。もう良いから顔を上げてくれないか?」

「私のこの色は先祖返りです。ウサギとは何の関係もありゃしませんよ」

 白猫は顔を上げるなり、つんと顔を反らせて前足で顔を洗った。その様子から見るにかなり自分の色に自信を持っているようだった。

「当たり前よ。白猫みたいなやかましいのと一緒にされちゃたまらないわ!」

 群れの一番右端にいたウサギが言った。かすれるほど高くか細い声だった。耳をひくひくと横に向けているのは、前に向けるとあまりに話し声が大きく聞こえすぎるのかもしれない。

 猫はすぐに顔を上げた。夕暮れの薄闇に猫の紅い眼がきらりと光った。髭はあいかわらずもぞもぞと動いている。

猫は大きく一度身体を伸ばしてから、僕の正面にまたきちんと座った。

「思うように声も出せないウサギに言われちゃたまらないのはこっちさ。聴くことばかりで自分からは何も言わないなんて随分な身分じゃ無いか。」

 ウサギはするどい前歯を猫に向けて怒ったが、白猫は尻尾で軽くあしらってしまった。ウサギは悔しそうに跳ねて群れの中に入ってしまった。

 白猫はもうウサギには目もくれないで、僕の前で身体を伸ばしてあくびをひとつした。

「失礼致しました。どうも伏せていると肩が凝って仕様がありません」

 僕はいつのまにか言葉を話す獣たちに違和感を感じなくなっていた。いや、本当は始めから違和感など感じていなかったのかもしれない。話すとか話さないとかそう言うことはどうでも良いことに思えた。自分たちの上でなっている葉擦れの音だって、木々の言葉かもしれないし、僕らの話している言葉だって本当はただの雑音かもしれないからだ。

 言葉は音の組み合わせに意味を与えることで生まれる。つまりそのラべリングをする装置が頭の中になければ、言葉を発してもそれはただの雑音にすぎない。

 白猫はもう一度身体を伸ばした。

 僕はようやく口を開いた。

「猫も大変だね。猫背は肩が凝りやすいんだよ」

「ええ本当に。神様はどうして私たちをこんな厄介な体勢に創造されたんでしょうな。きっと家を猫に引っ掻き回されたことでもあったんでしょう。もしそこにねずみがいれば、神様をお助けできてこんな体勢に生まれることも無かったろうに!」

「それだけ業が深かったのさ!」

さっきのネズミとウサギの声がした。しかし白猫は気を悪くした様子もなく、あくびを噛み殺していた。

「神様の話をするなら、どうして僕に神様は長い鼻をくれなかったんだろう?」

 群れの左端にいたパグ種の犬が低い声で呟いた。彼は短い鼻をぶすぶす言わせて、

「この鼻のおかげで、僕はいろんな人間や仲間に笑われたよ。この間なんてプードルに挨拶したら、汚いものでも見るみたいな眼をするんだ。ひどいよね」

「そりゃあ、そのプードル眼が悪かったんだよ。目が悪いと遠くを見るときに、こうして眼をひそめないといけないからね」

 白猫はそう言って、紅い眼を細くした。続いて口を開いたのは、脇に立っていた「板宿八幡宮」と赤地に白抜きされた旗の上に留まっていた鳶だった。

「くだらんね。鼻なんて気にすることではないよ。あまり長くない方が良いだろう。あまり長いとペリカンのように邪魔でしかたない。獲物をとっても飲みこむ前に逃してしまう可能性だってある」

 鳶はそう言って大きくはばたいてパグの上に飛び移った。

「鼻など匂いが嗅げればそれで良い。立派なものだよ、お前の鼻は」

 パグは一生懸命ほめられたばかりの自分の鼻を見ようと頑張った。しかし寄り眼になって、くらくらしただけで見ることはかなわなかった。パグはすこし目を回してその場に横になった。鳶はまた旗の上に戻った。

「ちょっと、話がずれてるんじゃアないかい!アタシはここにそんなつまらない話をしに来たんじゃないよ!家にオマンマ待ってる子供たちを置いてまできたのは、ここで大事な山に対する話をするっていうからじゃないか!」

 頭にキンキンと響くような声で突然群れの中から、イタチが叫んだ。小さな顔の髭をすべて上に向けて、怒り心頭といった態でイタチは前にひょいと出てきた。

「もう夜が来ちまうじゃないか!もう良いよ!仕方がない。話し合いは今度にしよう。でもね、今回の集まりを無駄にはしたくないね。そこで、提案さ。せっかく人間が来たんだ。ちょうど良くね。ここでアタシたちに誓ってもらおうじゃないか!山をこれ以上汚さないってね」

このイタチの提案に獣たちは沸きかえって同意した。僕は山を揺るがすようなその声に圧倒されて、身をすくめて周囲を見やった。白猫がこちらを見上げていた。

「これはまずいかもしれませんね」

「僕はどうすれば良いだろう。君はどう思う?」

「そんなこと私にはわかりませんよ」

 白猫はそう言うと、ひらりと僕の傍から身を翻して、群れの方に行った。僕はすっかり途方に暮れてしまった。日はすでに暮れている。かなり暗くなった境内から僕をじっと見つめている何十対もの眼は恐ろしいほどにらんらんとしている。

「ほら、もう山を汚さないって言いなよ」

 イタチが前に出てきた。それに続いて群れが一歩前進した。

「そんなこと言っても、僕の力じゃどうにもなんないよ。工事をしているのは大人で、僕がどうこうできる問題じゃない」

「そんなこと言ってるんじゃないンだよ!」

 今度は初めのタヌキが叫んだ。僕は打たれたように身体を強ばらせた。

「アタシたちが言ってンのは、あんたのことだよ。アンタはどうしてくれるんだって言ってるんだよ!」

「僕は山には何もしていやしないと思うよ。まず今日来たことだって、ほんの偶然だしね」

「生まれてこの方、ごみ捨てた事もないって言いきれンのかい!うちの子はアンタたち人間が捨てた缶で足を切ったことがあるんだよ!」

 僕はできうる限り思い返してみた。山に行ったことなんて学校の登山くらいしかない。けどあのときはゴミなんて捨てていない。先生に言われてきちんと持って帰った。

「僕はないよ。ゴミなんて捨てたことが無いね」

「アンタはそうでも他が違うだろう?他人がゴミを捨てるのを見ていて、何も言いやしないのも立派なゴミ捨てさ!拾えば良いってわかってるはずだからね!」

「見ていもしないね」

 僕はやっかいなことを約束せずに、このままできるなら押しきって帰ってしまおうと考えた。現に僕はそんなことをしたことはない。嘘はついていない。

「誓うも何も、やっていないのだから良いだろう。じゃあ、僕はそろそろお暇するよ。家で心配していちゃいけないからね」

「待ちなよッ!」

 後ろからタヌキの怒った声が聞こえたが僕は振り向かずに石段を駆け下りた。こじんまりとした畑をとりまくように弧を描いて石段は下る。僕はそこを早く、そして慎重に駆け下りた。すっかり暗くなった辺りに僕の足音だけが、パンパンとやかましく響いた。

 住宅街に入った。道沿いの家から夕飯の良い香りと話し声がわずかに聞こえた。僕は走るのを止め、歩き始めた。人の気配に触れることでようやくさっきの獣たちから無事逃げられたのだと実感できた。下りだったのであまり気にはならなかったが、のどが痛くなるほど息はあがっていた。

 息を整えながら家に向かって、僕は両端の家がせり出してトンネルのような路地を抜けた。子供の泣き声がする。何がそんなに気に入らないのかひどく泣き叫んでいるようだ。母親は何をしているのだろう。

 家の近所の空き地の横まできた。いつもはどうとも思わない空き地だ。『猫山』と昔は呼んでいた。何故かは憶えていない。猫がたくさん住みついていたのかもしれない。けれど今は自動車が何台か停められているだけで、猫の姿など見たことも無かった。

 ただそこにある茂みが厭だった。今日は特にそれがひどい。薄暗い茂みはいやおうなしに自然の漠然とした恐怖をたたえている。僕は足早にそこを過ぎようとした。そのとき。また子供泣き声がした。

 思わず足を止めたのはそれがあきらかに『猫山』から聞こえてきたからだ。『猫山』は一応フェンスで閉じられていたが、子供はよく入って遊んでいる。

 かくれんぼでもしていて、日が暮れて動けなくなっているのかもしれない。

 そんな気がした。もう一度子供の声がした。さっきに比べ、だいぶ小さな声だった。衰弱しているのか、と思ったときには僕はフェンスに足をかけていた。

 本当は家に帰ってしまいたい。しかし衰弱しているのなら、見捨てていくわけにもいかない。

 僕はフェンスの内側に着地して、ゆっくり中に進んでいった。街灯の明かりが木々で遮られて暗い。さらにまるで自分の侵入を拒んでいるように枝葉が進行の邪魔をする。僕は退ける腰を叱咤して、声のした方に分け入った。

 声はすでに消えていた。

 しかしだいたいの見当はついていた。入ってすぐの石垣の裏手辺りだったはずだ。僕は慎重に足場を踏んで石垣を越えた。

 きらりと光るものが前を走った。

 僕は体を強ばらせてそちらを見た。木の不気味なシルエット。僕は石垣に腰掛けて、さらに眼を凝らした。気のせいとは思えない。

 その時、僕のすぐそばで子供の泣き声がした。

「ひっ」

 声が歯の隙間から漏れた。咄嗟に振り向いた先にはあの白猫がいた。暗闇のなかでその毛並みは銀色に輝き、眼の紅だけが無彩色の視界であざやかだった。

 白猫は僕を見上げていたがもう何も言わなかった。そしてすっと視線を僕の手をついているところにやった。白猫は何も言わない。けれどその眼は言葉よりも高圧的に僕の行動を支配した。

 僕は白猫の視線の先を追った。

 手元には何か細いものがあった。掴んでみる。軽い。石ではない。

 僕はそれが何か見極めようと月光の落ちているところに手を差し出した。

 白い。とても白い物体。

 僕はそれが何か知っていた。そう、それは――、

「それは私の子供の骨ですよ」

 抑揚の無い声で白猫が話した。紅い眼は僕を見ている。紅い眼は僕を、僕を……。

思い出した。

白猫に逢ったのはベランダが初めてじゃあない。それはずっと昔……。

 握った手の中で骨が砕けた。

 白猫が一声ないた。細い、高い声。

 それが僕の聞いた最後の音だった。

 

<終>




椎楠さんありがとーvvv
うー。むっちゃ感激。八幡様のみならず今は無き「猫山」まで出てくるなんてv
雪山のツボつかれちゃいました。きゅぅぅぅ(何)。
これを書かれた椎楠さんのサイトは こちら。(←閉鎖されました)

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