夏都(かと)は屋上が大好きでした。
 夏都は、町を見下ろすのが大好きでした。
 夏都は、太陽の光が、その暖かい光が、とてもとても好きでした。


 でも夏都は
 大きな男の人が、とても、苦手でした。


屋上と日向ぼっこ



(うーあーまたいるよー……)
 夏都は屋上につながるドアを少しだけ開け、そこにいる人をこっそりと覗いていた。
 ガクランを着ている。だけど、中学生じゃない。グレーのガクラン。多分、 この近くの高校生。頭が良いという噂の学校の制服。
 夏都は、このあたりのことはまだあまりよく知らない。
 つい最近、引っ越してきたばかりだから。
 でも、そこに立つ男の人のことは、知っている。
 名前も歳もどんな人なのかも知らないけれど。
 この人が、晴れている日はいつも、夏都がここに来るときはいつも、 この場所にいることを知っている。
 夏都が通う女の子ばかりの学校は、最寄の駅から3ついって、そこからも10分くらい歩かないといけないから。
 学校から近いこの人が先に陣取っていても、仕方ないことなのかもしれないけれど。
(むー……)
 夏都は、心の中で唸った。
 この人がいたら、夏都は屋上には出れない。
 ぽかぽか太陽の下で、日向ぼっこできない。
 夏都の大切な時間。
 引越し先は今までみたいに二階建ての家じゃなくて、マンションだから、 きっと屋上からの景色も綺麗で、太陽もあったかいよって。
 お父さん、言ってたのに。
 まだ一度も、見れてない。
(何でこの人いつもいるのかな?)
 夏都と一緒で、高いところが好きなのかな。
 日向ぼっこ、好きなのかな。
 でも時々、すごく、切ない顔をする。
 いつも背中しか見れなくて、チラッと横顔が見えたぐらいなんだけど。
 決して、夏都を見ない。
 決して、夏都を振り返らない。
 振り返られたら、夏都は、逃げてしまうけれど。
 ――あなたはどうしてそこにいるんですか。
 夏都が、大きい男の人、恐くなかったらそう聞くのに。
 今日も夏都は、屋上で日向ぼっこ出来ないまま、すごすごとうちに帰った。


 夏都のオジサンはすごく背の高い人だった。おばあちゃんとオジサンと夏都の家族は、おばあちゃんの家で一緒に暮らしていた。
 オジサンは、ずっと家にいた。
 ずっと家にいて、ずっとお酒の匂いを振りまいていた。
 朝でも昼でも夜でも。
 夏都はお酒の匂いが嫌いになった。
 お酒の匂いは夏都も夏都のおばあちゃんもお父さんもお母さんも嫌いだと言った。
 夏都はオジサンが嫌いになった。
 オジサンは機嫌が悪くなるとすぐに夏都やおばあちゃんやお父さんやお母さんを殴ったから。
 でも夏都以外誰もオジサンのことを嫌いだと言わなかった。
 そんな時は決まって、誰かがオジサンもこの家の大切な人なんだよ、と言った。
 嫌なことがあったら、ぽかぽか陽気の下で日向ぼっこしてごらん。そうしたら自分も晴れやかになるよ。
 そんなことを、夏都に、言った。
 とても、とても悲しそうな顔をして。
 だから夏都もオジサン嫌いとは言わなくなった。
 オジサンのことが好きになったんじゃなくて。
 皆の悲しい顔は見たくなかったから。
 けれど夏都は、いつの間にか背の高い大きな人が恐くなっていた。
 おばあちゃんが天国に行ってしまったことはとても悲しくて辛かったけど、でもオジサンと一緒に暮らさなくて良くなったことは、 夏都は嬉しかった。
 ずっと暮らしてきたおばあちゃんの家をオジサンに預けるのは本当に辛かったけれど。
 新しい町も、新しい家も、夏都は大好きになった。


 けれどここにも、背の高い大きな人はいるんだ。
 そして、夏都の一番大事な大好きな場所を、奪ってしまうんだ。


 次の日は雨だった。
 しとしとと降る秋の雨。
 帰りの電車の中から見る雨は、奇麗だと夏都は思った。
 細い細い糸が次々に降ってくる。少しだけ明かりを反射して、キラキラキラキラ輝いている。
 ああ、奇麗だな、と夏都は思った。
 雨だけど。お日様は出ていないけれど。
 夏都は屋上に行こうと思った。
 空の近くから降り注ぐ光の糸を見ようと思った。
 今日ならあの大きい人もいないだろう。


 夏都は驚いた。
 夏都はお気に入りの太陽が笑ってる柄の傘は持ったままで、玄関に鞄を放り出して、一気に屋上へと駆け出した。
 夏都が初めて来た雨の日の屋上。
 そこにもやっぱり大きな人はいた。
 傘をささずに立っていた。
 夏都は屋上へのドアを全開にしてしまった。そこには誰もいないと思っていたから。
 その物音に、彼は初めて夏都に振り向いた。
 驚いているのか怒っているのか夏都にはわからなかった。
 その人は静かな顔をしていた。
 黒い髪に流れ落ちる雨粒がとても奇麗だった。
 何故か夏都は、切なくなった。
 とても、とても。


「雨……濡れるぞ」
 ボソリと彼は言った。低い声だった。
 心配してくれるのかなと夏都は思った。
 そうしたら、少し、恐さが消えた。
「夏都は、傘があるから、大丈夫」
 細切れになりながら、夏都は答える。ポムと傘を開いて見せる。
 にこにこ笑う太陽。夏都が大好きな傘。
 夏都はまだ扉から出てはいなかったから、濡れることはなかったけれど。
「夏都……?」
 彼は少しだけ眉をひそめる。その顔は怒っているみたいで夏都は嫌だった。
「夏の都で、かと。姫小松夏都(ひめこまつ かと)。それが私の名前」
「姫小松……って、304号室に越してきた……?」
 夏都は本当に吃驚した。
 なんでこの人は知っているんだろう。
「うん。あなたもここの、マンションの、人?」
 夏都はパチクリと大きく目を開いたままで、尋ねた。
 雨に降られる彼の姿を、ジッと見つめたままで。
「ああ……403号室の……草野」
 ボソボソと草野さんは言った。
 制服のままで雨に濡れながら、でもそんなことはまるで気にせずに。
 不思議だな、と夏都は思った。
 この人は、怖くないや。
 この人は、綺麗だ。
 背が高くて、大きい、男の人なのに。
 オジサンとは、違うや。
 なんでだろう。
 なんでそう思うんだろう。
 夏都には、よく、わからなかった。
「お前の部屋に前住んでた奴……もの凄い、空が好きだった」
 唐突に、草野さんはそんなことを言った。
 夏都は小さく首を傾げた。
 夏都の家に前に住んでいた人なんて、知らない。
 でも、とっても綺麗なままで、部屋を残していってくれた人。
 夏都は、少し、嬉しくなった。
 全然知らない人なのに。草野さん以上に知らない人なのに。
 きっとその人はすごくいいひとなんだろうなあと夏都は思った。
 だって、お日様が昇る空が、好きな人だから。
「その人は今どうしてるの?」
 だから夏都はすごく自然に、そういう風に聞いていた。
 草野さんは、ふっと視線を反らす。
 ジッと見上げる夏都の目から、逃げ出してしまう。
 ああ、同じ。
 一人の時に見せるのと同じ、切ない顔。
「知らない。……この空の下の、何処かにいる」
 草野さんの答えに、夏都は怪訝な顔をした。
「亡くなったの?」
 夏都は、頓着せずにまた尋ねた。
 この人は怖くないんだって思ったら、もっと、この人のことを知りたくなってきた。
 夏都と同じ、屋上が好きな人。
 屋上にずっと、通い詰めてる人。
「空の『下』だ…何処かで生きてる」
 草野さんは顔をしかめて、『下』を強調して、苦い声で答えてくれた。
 ずーっとずーっと遠くまで続く空の下。
 それはとてもとても、広い世界だ。
 何処にいるのかわからないぐらい、広い世界だ。



 ああそうか。
 そうなんだ。



「だから、毎日空を見にきてるの?その人に、会いに来てるの?」
 草野さんが毎日この屋上に来てるのは。
 草野さんが時々切ない顔を見せるのは。
 夏都の部屋に住んでいた人のためなんだ。



 草野さんはちょっと驚いた顔をして、その後ちょっとしまったという顔をして、 夏都を見返った。
「……毎日覗くだけ覗いて帰ってたのはお前か……」
「あれえ?知ってたの?」
 今度は夏都が驚く番だった。
 気付かれていないと思っていたのに。
 草野さんは、夏都がこっそり覗いていたこと、気付いていたんだ。
「なんか、俺のこと警戒してるみたいだったから、放っといた」
 ポツリ、草野さんは言った。
 本当に草野さんは気がついていたんだ。
 夏都がどう思ってたかまで、気がついていたんだ。
「夏都はねえ、背が高い人が苦手なの」
「…………………………」
 草野さんは小柄な夏都を見下ろす。
 でも、大丈夫。
「でも、草野さんは怖くないね。怖くないって、わかったよ」
 そう言って、夏都は、一歩、足を踏み出した。
 傘をさして、精一杯背伸びして、夏都は草野さんをお日様傘に入れてあげた。
 草野さんは、黙って、その傘を夏都の手から取った。
 そして、夏都が濡れないように、代わりに傘をさしてくれた。
 ポツポツと小さな音を立てて、お日様傘に当たっては光の糸が弾けてく。
 やっぱり草野さんは。
 優しい人だ。
「……年、いくつ?」
 しばらく黙っていた草野さんはそんなことを聞いた。
 夏都は、年のことを聞かれるのは少しだけ苦手だった。
「14歳。中学三年生」
「……にしては、幼いな」
 そう。そう言われるから。
「うん。……なんかね、精神的なもので、身長が伸びなくなっちゃってるって、お医者様に 言われたことがあるよ」
「…………………………」
 草野さんはまた、黙りこんでしまった。
 夏都は、言わなければ良かったかな、と、ちょっと後悔した。
 大丈夫なんだけれど。
 いくら日向ぼっこして、いくら牛乳飲んでも、背は伸びない。
 でも、それが嫌だと思ったことは、ないから。
 夏都は夏都のままでいいって、死んじゃったおばあちゃんもお父さんもお母さんも言ってくれたから。
「俺と二つしか、かわんねえのか……。ていうか……身長とかそういうことより、 何かがコドモっぽい」
 草野さんは、雨に濡れた手で、雨に濡れた髪をかきあげた。
 ボソボソと独り言のように言いながら。
 草野さんは高校2年生なんだ。
 随分、オトナだと、夏都は思った。
 そして、夏都は夏都がコドモだって、わかっていた。
「コドモだもの。夏都は」
「ああ……まあ、な」
 夏都の真面目な言葉に、草野さんは顔に歪ませた。
 苦しそうだった。
「コドモでいることが、悪いことじゃない……と、俺は思う。そういうことを、 陽太が教えてくれた」
 今までより一層聴き取りにくい声で、草野さんは夏都に言ってくれた。
「陽太、さん?」
「304号室に、住んでたヤツ」
 空が好きな人だ。
 陽太、さん。
 ――太陽。
 すごく、いい名前。
「よく似てる」
 ふわり、と草野さんは笑った。
 優しい顔だった。
 夏都に笑いかけてくれているのか、それともこの空の下の何処かにいる陽太さんを 思い出して笑ったのか、夏都にはわからなかった。
「コドモみたいなヤツだったのに、だけど、誰よりオトナで人のことをちゃんと考えてる。 人のことを、ちゃんと見てる。そういうヤツ」
「……夏都と、似てる?」
 キョトンと、夏都は傘をさしている草野さんを見つめた。
 気付けばすごく、近くにいる。
「毎日空を見にきてるのは、……その人に、会いに来てるのかって、聞いただろ」
 少し照れたように夏都から顔を背けて、空いた手で口元を押さえて、草野さんは言った。
 可愛らしいなあと、夏都は思った。
「だって夏都ならそうすると思ったから」
 ぽかぽか暖かい太陽の光を浴びながら。
 大好きな日向ぼっこをしながら。
 空の近くの場所で、空が大好きだった人を思う。
 それはとっても、素敵なことだと、夏都は思った。
「そのままでいい。背は、いずれ伸びるようになるだろ。大事なのは……」
 草野さんはほんのりと赤く染まった顔を夏都に向けてくれた。
 そして、続きを、夏都に聞かせてくれた。
「大事なのは、そういうことをちゃんと考えられる、心の方だと思う。だから、……心を大事にして やればきっといつか、背も伸びるんじゃねえ?」
 砕けた口調で、草野さんは夏都に言ってくれた。すごく、照れているようだった。
 そうだね。
 大事なのは、心なんだね。
「ねえ草野さん」
 夏都は、にこにこと笑いながら草野さんを見上げた。



 こうやって見上げることも。
 こうやって傍にいることも。
 こうやって笑うことも。
 草野さんだったら怖くないよ。
 不思議だね。
 きっと草野さんも、心を大事にしてるからなんだね。
 人をちゃんと、見てくれるからなんだね。



「これからは、草野さんと一緒に日向ぼっこ、してもいい?」
 夏都の目に、ちょっと困ったような草野さんが映る。
 草野さんの目に、にこにこと笑えてる夏都が映る。
「……俺は、日向ぼっこなんかしてないけど……。今までみたいに逃げなくても、 いい」
 真っ赤になった草野さんに、夏都はまた笑った。
「……おい、あれ」
 草野さんはそういって夏都のお気に入りの傘をたたんだ。
 雨は夏都が気付かない間に、やんでいた。
 雲間から、夏都が大好きな太陽が帰ってくる。
 でも草野さんが指差したのは、遠く向こうの。
 七色の、光。
「うわあ、虹だあ」
 夏都は嬉しくなって、錆付いたフェンスに走りよって手をかけた。
 雨が作り出してくれた美しい景色。
 夏都の隣に、草野さんは立った。
 そっと草野さんを覗き見る。
 草野さんも微笑んで、優しい瞳で、虹色の光線を眺めていた。
 陽太さんも何処かで見てるのかな。
 夏都はそんなことを考えてみたりした。
 きっと、同じことを草野さんは考えていたと夏都は思った。



 ねえ、草野さん。
 私、ちょっと身長伸びたんだよ。
 日向ぼっこしてたお陰かな。
 それとも、草野さんのお陰かな。
 草野さんがとても大切にしてるお友達に、いつか、夏都も会えたらいいな。
 草野さんと一緒に。



(終)




「MOONSHINE」さんで、二周年記念企画に参加してリク権をげっとしてきました☆
名前リクエストは「姫小松 夏都[ひめこまつ かと]」、内容リクエストは「屋上とひなたぼっこ」でした。
野木さんとお会いする機会があって、 その場で国語辞典と漢和辞典をめくって適当に決めた名前です(汗)。というか、 あるものの余りモノだったり(滝汗)。
名前はインスピレーションと響きから決めてゆくヒトですので。
そしてリクして1週間もたたないうちに書き上がるなんてすごいです
やさしいお話をありがとうございましたvv
コレを書かれた野木さんのサイトはこちらです。


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