闇色の眼
暗く澱んだ世界に、光など必要なかった。
此処は暗黒。此処は、闇。
人間(ひと)が地獄と呼ぶ、この世界。
りんと一つ、ドアベルが鳴る。人間世界――地上となんら変わらぬ構造の、狭苦しい
一室の中に彼はいた。
灯りは一つもない。灯りなどなくとも、彼らには見えるからだ。
部屋の中にはみすぼらしいテーブルと椅子が一組、そして一台の姿見が壁に立てかけられていた。
「……カズナか」
ぎぎ、と鈍い音を立てて、ドアが開く。だらしなくテーブルに投げ出した長い足を組み合わせ、
顔の上に紙を被せたままで呟いた。手を頭の後ろで組み、足と腰を使って椅子を揺さぶる。
「暇そうだな、コウ」
「そうでもないさ」
コツコツと高い音を立ててゆっくりと近づく美女に、コウは顔に乗せてあった紙を放り投げる。
重量のないそれはフワフワと宙を舞ってから、寸分違わず彼女の手の中へ落ちていった。
写真の中の少女は、憮然たる表情でレンズを睨みつけていた。大きな目は子猫のように従順の
ように見えて、人を射るような迫力を持ち合わせている。髪は長く、真っ直ぐに伸びている。
色素の薄い肌に、黒い髪がよく映える少女だった。
「日本人(ジャパニーズ)……仕事か」
写真だけを一瞥し、カズナはその紙を伸びてきた彼の手に差し返した。コウは人差し指と中指で
それを挟むと、そのまま手で紙を弄んだ。
それは『指令書』
この地獄の住人を増やすがための。
「俺の仕事はアジア圏なんでね。……お前は?」
「仕事……いや、余計な世話か。副業の方でな」
「本業のお前に会わなきゃならないようなことはやらかしてねえ。……で?」
カズナを一度たりとも振り返らずに、コウは先を促した。カズナは終始一貫して冷酷なまでの無表情
で、コウを見据える。
「つきに出会うな」
彼女は一言、凛とした声で言い放つ。コウは面白そうに片眉を上げ、唇の端を吊り上げた。
「つき……月?ムーン、か?それとも、ラッキーアンラッキーの、ツキ?」
「知らん。ただそういう風に見えた。それだけだ」
「ふうん?」
気に留めるわけでもなく、コウは適当に相槌を打つ。カズナもそれに気を害するわけでなく、
ああ、と頷いて見せた。
カズナは、未来(さき)を見る者。『予見師』と呼ばれている。
どの程度先のモノが見えるのか、具体的に何が見えるのか、それは『予見師』によっても
異なり、『予見師』にしか知ることの出来ないものである。
人間だった頃も、そういった力はあったのだと、口数少ない彼女が一度漏らしたことがある。
その彼女が何故此処に――地獄に堕ちたのか、コウは知らない。
なぜ悪魔に心を売り払ったのか。悪魔に、なったのか。
そんなことは、知らなかった。また、興味もなかった。
彼女が、コウが何故悪魔になり払ったのか知らないのと同じ。訊かないのと、同じで。
「まあ、大丈夫さ。今日は――」
コウは軽く肩をすくめて何も示さない姿見に向かい手で遊んでいた指令書を放り投げた。
それは鏡面に吸い込まれ、闇だけをとらえていたその一面に少女の姿が映し出される。
闇の中、人工の光を浴びて、一人立ち尽くす少女の姿を。
コウはニヤリと口元を歪め、立ち上がる。
漆黒の髪、漆黒の瞳、そして禍々しいまでに美しい、紅く染まった唇。
ふと、カズナが自分の髪を手で押さえる。これから起こることを予見したかごとく。
バサリと音を立て、室内に風が巻き起こった。
闇の中、完全に同化した、その翼。
両翼は狭い中、不自由にはためく。
「今日は、闇が支配する日だ」
コウはゆっくりと鏡の前に立ち、その手を界面に当てる。
ズブズブと、飲み込まれていく手のひら。
その時初めて、彼はカズナを見返った。
瞳には、揺ぎ無い自信。
そして、何をも求めぬ、虚無の影。
「ああ」
カズナは小さく首肯した。その体全てが鏡の中に飲み込まれる直前に、彼はまたニヤリと笑って見せた。
今日は闇夜。
光のない世界。
少女は一人、人工の光をマンションの屋上から見下ろしていた。赤や青、種々の色が
入り乱れ、闇に染まった夜空を染め上げている。星も見えず、月すらも姿を隠した夜の空は
それでも明瞭に照らし出されている。
殺伐とした風景だった。繁華街から数百メートルほどしか離れていないにも関わらず、路地を一本
入ったこのマンションの下はまるで人気がない。夜の静寂と、夜の喧騒とを両方感じられる、不思議な空間でもあった。
夜更けを過ぎ、少女が一人でいるような場所ではない。けれど、彼女は錆びれた金網のフェンスに
白くか細い指をかけ、ただ下に広がる世界を眺め下ろしていた。
人家の光が消えても、街の光が消えることはない。消える頃には闇は晴れ、赤く眩しい太陽が
この世界に光を与える。
本当の闇を、少女は知らなかった。
心が闇に巣食われても。何処かに必ず、光は存在する。
存在すると、思っていた。
目の前の光が、全て奪われた――その、瞬間までは。
恐怖は、なかった。
街の灯りも、微かにあった人家の蛍光灯も、全て、視界から消え失せても。
暗闇が全身を駆け抜けた、その時でも。
「……誰?」
視界に光が戻ってから。ゆっくりと、少女は振り返る。
人の気配――否、それは人の気配などではない。
何者かわからぬ、異物の。
大きく揺らぎのない瞳が、真っ直ぐに其れを捉える。
黒く、強大な、鋭利な刃物のような――この世ではあり得ない、翼を。
其れは音も無く、少女の前に現れた。
「コンバンハおジョーさん。こんな所で何してるの?」
黒いシャツと黒いパンツをまとった長身の青年は、紅い唇を持ち上げて笑った。口紅を塗った
ように、光沢のある唇。
そこから紡ぎ出される、バリトンの、よく響く声。
完璧なまでに洗練された、美貌。
けれどそれは、美しさと同時に戦慄を与える何かを持っていた。
「……貴方、何者?」
「俺?可愛い女の子を見つけてやってきたんだよ。危ないよ?こんなトコいると」
「嘘」
少女は一言だけ、そう切り返す。
見るものを射抜くその瞳で、真っ直ぐに彼を映し出したままで。
「嘘?嘘じゃないよ。こんな所にいると……」
彼は一度言葉を切った。左手は右肘に当て、右手は唇を隠すように覆う。切れ長の瞳だけが、
笑みを縁取っていた。
そして、フッと鼻で笑って、付け足す。
「闇に、飲み込まれちゃうよ?」
「…………………………」
少女は彼を見つめたまま、目を見開いた。
「闇に飲み込まれたのは……貴方が来たから」
今度は彼が目を瞠る番だった。少女はその微かな反応を一つずつ確かめながら、
言葉を選ばず単刀直入に、問うた。
「貴方、人間じゃないでしょ」
「……どうして?」
余裕の笑みと、錯綜する驚愕、その一つ一つを、少女は確かに読み取っていく。
そういう眼を持っているのは自分だけだと気付くのに、どれ程の時間を要しただろう。
自分に見えるものと、他人(ひと)が見ているものとが違う、ということを。
どれ程の時間と、どれ程の痛みを、要しただろう。
けれど、この眼を潰すだけの強さは、自分にはなかった。
この眼を潰して、闇に生きるだけの力は、――勇気は、自分にはなかった。
この眼に耐えるだけの力を身につけるしか、なかったのだ。
なかったのだ、けれど。
少女はゆっくりと、指差す。
彼に向かって。彼の、背に向かって。
その、細く長い指とともに。
――宣告を。
「貴方の背中から生えてるものは、何?」
「…………………………」
絶句した直後に、舌打ちが聞こえた。舌打ちが少女の言葉のせいなのか、絶句してしまった
自分に対するものなのか、判別はつき難かった。
「錯覚だよ。……と言っても、通用はしないんだろうな」
先程までの能天気なノリとは違う口調と、両手を広げてオーバーに肩をすくめる仕草が、
完全に人を見下していた。
「カズナと同系統の人間か……」
見なくとも良いものまで、見てしまう眼。
独りごち、広げた手をもとに戻すと、彼は闇色の髪を無造作にかきあげた。少女は何も
言わずにただ彼を見つめていた。
「これは厄介だな。……余計なモンまで見ちまうからだぜ?」
独り言と入り混じった発言を、彼は少女に投げかけた。脅迫のような、圧力。けれど
それに圧されることなく、少女は決して彼から目を反らさずに尋ねた。
「貴方、何者なの?」
「俺が天使のように見えるか?」
「見えない」
一刀両断されて、彼は口をへの字に曲げた。その率直な意見が面白くなかったらしい。
「……まあ、見えるって言われても反吐が出るけどな。俺は人を救うために存在する(いる)だなんて
言える甘ちゃんなんか大嫌いだ」
「……悪魔とか、そういう部類の人?」
「人じゃねえ。……けど、当たりだ」
即座に反駁しておいて、彼は少女の言葉に首肯した。彼にとって核心だけを突いてくる少女の物言いは、
小気味良いものだった。
悪魔と聞いて、恐怖を微塵も感じさせないところが気に食わなかったりもしたが。
「私を、殺すの?」
少女は、自分の生死を問う質問でも表情を変えない。
写真と同じ。何もかもに対して、不満と欺瞞を感じているその瞳。
それに恐怖の色が混じれば、どんな顔になるのだろう?
彼の頭によぎったのは、そんな単純な、そして悪魔的な好奇心だった。
「俺の仕事は、お前を俺達の世界に連れて行くことだ」
彼はまた唇を歪めた。純粋に物事を楽しみながら、それでいてシニカルな笑み。少女は
それでもなお、瞳を反らすことも、揺るがすこともなかった。
だから、彼は、続けた。
普通の人間ならば、必ず恐れ慄くその言葉を。
「お前の魂を、地獄へ誘うこと。それが、俺の仕事だ」
バサリ、と風を切る音とともに、疾風が少女の髪を、衣服を乱した。
翼が、その言葉を喜ぶように、舞う。
彼はそのままじっくりと少女の様子を観察した。少女が彼にしたように。
けれど、少女はわずかに瞳を伏せただけだった。
驚いたわけではない。恐れたわけでもない。
――悪魔と解っていて、それが脅しでもなんでもないことなど、理解しているだろうに。
地獄へ堕ちることが、何を意味するのか、解らないわけではないだろうに。
「そう。……いいわよ」
少女はいとも簡単に、そう言ってのけた。
彼の、敗北の瞬間だった。
「でも、一つだけお願いを聞いて欲しい。その後なら、好きにして」
「……お願い?悪魔の俺にか?バカじゃないのか、お前」
腕を組み、少女を見下して、彼は言った。
そんな願いを聞かずとも、地獄へ連れ去る術は幾らでも、ある。
しかし少女は再び物怖じせずに彼を見上げて、頷いた。
「私に、見たことのない世界を……この世で、見たことのない世界を、見せて」
「……あ?」
「そうすれば、地獄にでも何処にでも行ってあげる」
懇願というようにも、見えない。あくまで、眼に映るもの全てに敵対心を抱いているような、
そんな眼をしている。
他に拠り所のない、孤独な瞳を掲げている。それが唯一の武器であるように。
その眼の奥に潜んでいるものは何だろう。
それもまた、彼の興味をそそった。
それは悪魔としてではないモノ。しかし、彼は気付かない。
何事にも執着せず、流されるままに生きる彼にとってそれが何かなど、考える必要などなかったからだ。
「俺は闇の世界しか知らない。地獄でも、この世でもな。そんなものを見てどうする?」
「どうもしない。ただ、見てみたいだけ」
平坦な口調で、少女は答える。フン、と彼は鼻を鳴らした。不機嫌を絵に描いたように
眉を吊り上げ、唇を横に引く。
「何処までも変な女だな。……いいだろう、ほんの、気紛れ程度に付き合ってやるさ」
表情を変えずに、彼は少女に向かって手を伸ばした。少女はその手のひらを見下ろす
時だけ、その眼に躊躇いを見せた。
「何だ?怖気づいたか?」
それに気付いた彼は、可笑しそうにクツクツと笑った。少女は、ゆっくりと首を横に振る。
「こんな風に手を差し出されたこと、ないから、どうして良いかわからなかっただけ」
その言葉に含まれる感情の機微に、彼は触れない。
気付かなかったのではない。触れなかった。
「はん?そんなもん、こうやって握りゃあいいんだよ」
彼は一歩踏み出すと、まだ体の横に添えられたままだった少女の手を無理やり握った。
互いに、冷たい手だった。しかし、少女が冷えた手ならば、彼は熱のない手だった。温度自体を
感じさせぬ、生命を感じさせぬ、まるで鋼のような、指先。
「……貴方、名前は?」
握られた手を見下ろしながら、少女は訊いた。
「コウ、だ。名前なんざどうでも良い。行くぞ」
コウは、そう言って自身の翼をはためかせた。
宵闇の中、自由に。
それは、彼の体と少女の体を、空へと誘う。
闇に覆われた、空へ。
「……つきに、出会うな」
カズナは主のいないその部屋で、姿見を眺めていた。
彼女を映すことなく、悪魔と少女を映す、その鏡を。
「この予見……現実のものに、したくはないんだ……」
その呟きを。
聞く者は、いない。
「……空を飛んだのは初めてだわ」
「人間風情が飛べるわけがないだろう。俺がこの手を放せば、お前は地面に叩きつけられて終わりだ」
少女の単純な感想に、コウは少しばかり得意げに返した。そうね、と少女はまた無感動に返答する。
彼が手を放しても、構いやしないというように。
少女の体は、コウと同じように宙に浮いていた。まるで、少女自身の背に翼が生えたように。
闇の空。人工の光は視界から遠ざかっていく。星のない夜、月のない夜、雲が天を覆う。やがて
地上からの光さえも失い、二人は暗夜の中に取り込まれていく。
「今日は新月だ。おまけに曇ってやがる。……こういう日が、一等イイんだ」
皮肉な笑みを浮かべて、コウは呟く。けれど、何に良いのかは、言わない。そして、少女も訊かない。
少女はその光景を目に焼き付けるように、闇に包まれた周囲を鋭い眼差しで見回していた。
「本当に……闇、ね」
黒い瞳が、ますます黒く染まる。光のない世界。何も、見えぬ世界。隣にいる男――悪魔、であるが――
の姿さえ少女の網膜には明確に結ばれない。
狭い部屋で灯りを消しているのとは違う。偽りの闇とは違う。真正の、常闇。
「お前らには何も見えない世界だろう。だが、俺達には光なんて必要ない。ここにいても、お前の顔は
よーく見えるさ」
上昇も左右の移動もやめ、コウは空の中でその動きを停止した。足が正しく宙に浮いた、言いようのない浮遊感に
少女は自分の真下を見下ろした。
上も下も、右も左も。何一つ、見ることが出来ない世界。
この眼は視力がいいのではない。
見なくても良いものを、視てしまうだけ。
「コウは、昔からそうだった?」
「何が?」
「昔から、そんな風に、見えたの?光なんか必要ないの?」
コウは、少女の顔を覗き込んだ。そんなコウに、少女は気付かない。空気が揺れたことに気付いても、
コウがどんな表情で、どんな眼で自分を見つめているのか、少女の目では、人間の目では把握できない。
それは、絶対的に違う瞳(モノ)。
「さあ……忘れた」
「悪魔になる前を、忘れたということ?」
鋭く、しかし無頓着に、少女は問い返す。像を結んでいないはずの瞳はそれでいてしっかりと
コウを見つめている。
その眼から、少し、敵愾心が薄れたと感じるのは、コウの思い違いなのだろうか。
悪魔である自分に警戒心を解くなど、あり得ない事なのに。
強い風が彼らの体を、そして翼を打つ。身を揺るがされても、コウは黙っていた。
海の、匂いがする。
――こんなに離れた、上空でも。
「コウも、元は人間だったんじゃないの?」
その問いに、コウは声もなく笑った。それは今まで見せたものとは違う、
どこか苦さを噛みしめたものだった。
「ああ……そうさ。バカなガキだった。お前みたいに悪魔を視ることもない、普通の
ガキだった」
悪魔に感傷など、ないに等しい。要らないものだ。
あるのは憎悪や嗜虐性、何かを傷つけ、汚すための、負のエネルギー。
それ以外のモノは、必要ない。悪魔であるため、消し去るべきもの。
光と、同じように。
「――バカバカしい。俺の話なんかどうでも良いだろう。
俺はお前に見たこともないものを見せる。それだけだ」
それだけでも、十二分に譲歩しているのだ。
コウは自分自身に襲い掛かる何かを払いのけるように、頭を振った。
揺れた髪が、眼前の少女の肌に触れる。
「どうしたの」
「何が」
「酷く、動揺しているでしょ」
少女の指摘は、辛辣だった。逃げを許さない。見逃さない。
――罰を。
与えられているようだった。
自分を恐れず、臆せず、真っ直ぐに――影を潜ませる瞳で、見上げる少女。
無鉄砲なのか、純粋なのか、単なるバカか――それとも、強さ、なのか。
その眼に惹き付けられている自分を、コウは信じない。
悪魔が魅了されるのは、殺戮という行為だけで十分なのだから。
今はもう、人間(ひと)ではない。地獄の、住人なのだ。
過去がどうあろうと。
もはや、戻ることの出来ぬ、その道。
コウはわざとらしく深い溜息をついて、空いた手を首に当てた。
「……それもその眼で見たのか?難儀な眼だな」
話を摩り替えるように、コウは侮蔑と感嘆が入り混じったような、複雑な
呟きを漏らした。
「……今は何も見えていない。……でも、そう。色んなものを、この眼で見てきた」
少女の声色が、変わる。白い手が、ゆっくりと少女自身の片目を覆った。
表情がないのは、変わらない。けれど、どこか痛みを感じさせる行為だった。
「……でも、コウが見えたことは、一番の収穫だったのかもしれない」
「……なんで」
「コウを見ることがなければ、こんな世界を見ることはなかったから」
そっと自分の目から手を放し、少女はグルリと顔を回す。
大きな瞳。視なくても良いものまで、捉えてしまうその瞳。
コウは、黙って少女を見つめていた。
風がそよぎ、二人の衣服をはためかせる。
そんな感謝など要らないと、コウは言いたかった。
謝礼ほど、悪魔に相応しくないものはなかった。
けれど、平然と少女は口にする。
「何も……余計なものを視なくても良い世界が、この世にもあることを……知ることが
出来たから」
「……悪魔になれば、……闇は、何も視なくても良い世界じゃあ、なくなる」
ポツリと、コウは呟く。少女の顔を覗き込むのは止め、自分の足元、さらにその下に
あるものを見下ろして。
「……闇の中でも、俺達の目は何でも見ることが出来る。お前のその眼は、きっと、
いつも休まることなく見続けるだろうな」
それは、強がりにも近い、脅しだった。
自分を保つために。自分を守るために。
悪魔であるために。
そんな風に追い込まれている自分に、コウは、気付かない。
「……………………」
その時初めて、少女の目に失望の色が浮かんだ。すぐにそれは、
深い闇の色に飲み込まれたけれど。
少女は一つ、息を吐いた。
「逃げることなんて、出来ないのね……」
「……………………」
コウはその言葉に聞き入った。
事実を受け入れ、紡ぎだされた言葉は、諦めの色を滲ませていた。
同じ言葉を紡いだ自分を、コウは覚えていた。
この世ではなく。
地獄で。
もし人間だった頃に。
そんな風に、気付いていれば。
――気付いていれば……何だ?
コウは、自分に尋ねた。
自分を、振り返った。振り返ってしまった。
自分の中にある、もう一人の自分――。
自分が、人間だった頃の……その、心を。
「……コウ?」
「……何でもねえ。何でもねえよ」
コウはそう言いながらも、歯を噛みしめ、美しい手で自分の服を強く握り締めた。
心臓の、辺りを。強く、鷲掴みにした。
「震えてるじゃない……」
握り合ったその手から伝わる律動を、少女は感じ取っていた。見えなくとも、触れていれば
否応なしに感じるものはある。少女は手探りしながら、彼の髪に、そして頬に触れた。
やはり、冷たい手だった。
その冷たい感触は、心の中までも侵食する。
長く長く、動くことのなかった心。
殺戮を繰り返し、人を地獄に連れてくる時にだけ、喜びを見出していた心。
悲しみは、なかった。苦しみは、なかった。
まるで、そういう風にプログラミングされたように。
ただ仲間を増やすために、がむしゃらに。人間の都合など考えずに、汚し続けた、この手。
――触れていて、良いのか?
この少女まで、地獄に堕ちる。
そう――そのために、自分は今、ここにいる。
錯綜する意識に、コウは混乱した。
発狂、に、近かった。
「お前は……お前が地獄に呼ばれたのは、その眼に絶望しているからなんだろう」
コウは、そんな風に切り出した。
「けどその眼は貴重なもんだ……。地獄に来ても自分の能力を使い続けている奴を、俺は
知っている……。お前もそうなるだろう……地獄に堕ちれば」
「……そうなの」
相槌を打つ彼女に、もう失望は感じられなかった。
失う望みなどもう全て、消えうせたのかもしれない。
コウは、静かに首を振った。
静かに、横に。
「お前の眼は綺麗なもんだ。……絶望なんざすることはねぇ」
この身を焼き尽くすほどに。
真っ直ぐに射る、その眼は。
汚れに満ちた世界には似つかわしくない。
似つかわしくないと、コウは感じた。
それは――狂気に違いなかった。
その感情こそが、狂乱の証だった。
悪魔としての、彼にとっては。
「そんなことを言われたのは……初めてだわ」
少女は、大きな眼で瞠目する。
「そうか?……それは、周りの奴らがバカだったんだろうよ」
フッと、コウは微笑んだ。その優しい笑みが、少女の瞳に映ることはなかったけれど。
「だったら私は……コウみたいな悪魔がいる、地獄へ行くわ」
にっこりと、少女は笑った。
敵意も何もない、無垢な笑顔だった。
「このまま此処にいても、誰もそんな風に言ってはくれないもの……。この眼を使うことになっても、
私は、そういう言葉が、聞きたい」
少女は微笑んだままで、やはり恐れもしない眼で、コウを見つめた。
その手は、彼の頬に触れたままで。
「コウ――ありがとう」
「礼なんざいらねえ……。いらねえんだ」
頭を強く振り、コウはその響きがもたらす感情を振り払う。
まとわりついて離れないものなのに。
「じゃあ……何が、いるの」
少女は首を傾げた。コウはその顔を眺めたまま、少女の名前を呼ぼうとする。
呼ぼうとして、その名を知らぬことに、コウは気付いた。
「お前の、名前は?」
今更ながら訊かれた問いに、少女は一瞬怪訝に眉をひそめてから、苦笑した。
「…………つき」
「え……?」
コウは、聞き返す。
「……………………」
少女の口が、動く。けれど、コウは聴き取ることが出来なかった。
それは、聴力の問題ではなかった。聴こえたはずのその言葉が、コウの中で形を作らなかった。
彼の動揺が、そうさせなかった。
ゆっくりと、少女の手が、離れた。
コウの頬からも、そして、手中にあったその細い指さえも。
翼を失った小鳥のように。
少女の体は、深い深い闇の中を、堕ちていった。
少女はこのまま地獄へ堕ちていく。
この下にある深い海に沈み、その体を見つけられることもなく、魂だけが地獄へ。
新しい仲間が、また、増える。
この手で増やしてきた仲間がまた、増える。
それだけのこと。
それだけの、こと――。
「つきに、出会うな、か……」
歪んだ笑みのまま、彼は足元を染める闇色を見下す。
「だったらこんな仕事、寄越すんじゃねえよ……」
微笑のままで、コウは独りごちる。
固く、固く拳を握り締めて。
「……お前の予見は当たりだ、カズナ」
彼は、そう、話しかけた。
聞いていないとは、思わなかった。
届いていると、思った。
こんな愚かな自分を、彼女は何処かで見ているだろうと、思った。
彼は、その翼を、自由に解放する。
急降下した彼の翼は海面の直前で少女に追いつき、その手で少女の体を引き寄せた。
闇空の下に待っていたのは、
黒く深く、怨念すら感じる、海の色。
衝撃と波飛沫が、二人の体を襲った。
空中で受け止めた少女とともに、そのまま深海へと堕ちていく。
海の匂いと、海の闇。
言い知れぬ恐怖を感じたのは、言い知れぬ恐怖と安堵を感じたのは、
その身を投げ出した時だった。
裏切りに疲れ、自らこの身を海に投げ入れた時だった。
――それはまだ、人間だった頃の話。
あの頃はまだ、死ぬ術が残されていた。こんな簡単なことで、死ぬことが出来た。
今では海中にいようと空中にいようと、地上にいることとなんら変わりない。
光と心、そして、生死の自由すら奪われた、その代償に。
過去の記憶と、此れから先に待ち受けるものを胸に秘めながら、彼はゆっくりと、地上へと向かった。
少女をその腕に抱きとめたまま、そのままに。
「…………………………」
「こんな時でも、綺麗な顔してんだな、お前は」
彼は、濡れた体で砂の上に座り込んでいた。皮肉を言いながらも、その美麗な顔にこれから起こることへの
恐怖も、自分がしたことへの後悔も示すことはなかった。
その場に立つカズナは美しい銀色の鎌を右手に、コウの姿を見下ろしていた。
「コウ……」
「早くすればいい。……闇があけるぞ」
逃げも隠れもせず、ただ気を失ったままの少女の体を自分の後ろにやって、コウは砂塗れのまま立ち上がる。
「お前は制裁人だ。それが、お前の仕事だ」
制裁人。仕事に背いたもの、地獄に背いたものを罰する、地獄の番人。
彼女の『本業』に触れたことを、コウは理解していた。
仕事に背いたこと。それだけではない。地獄に堕ちんとする人間を、悪魔であるコウが
自身の手で、助け出したのだ。
救うこと。それは、悪魔の禁忌。
天使の領域の、仕事。
甘ちゃんだと蔑んだ天使が行うべき業。
理解してもなお、少女を助けた訳を、コウは話さない。
弁明という言い訳を、彼は何一つ、口にすることはなかった。
カズナは鎌を手に、音もなく彼の背後に回った。それを察したコウは、おどけた視線を
一変させ、すぐさまカズナをねめつけた。
それに手を出すことは許さないと。
言外に、発しながら。
「……そは空を往くもの。
そは海を往くもの。
そは片翼を持つもの。
つきに出会ひてひを眺むるもの。
……それが、お前に向けた予見」
カズナは、そっとコウの翼に左手を触れる。
コウと同じ、熱のない手で。
少女とは、明らかに違うもの。
「お前は……つきに出会ってしまった」
「つき、か」
コウは背後の少女へと視線を向ける。
「……ならば、早く俺の翼を捕って去ね」
険しい声色で、コウは自分の仲間へと投げかけた。
カズナはやはり無表情のまま、そして無言で右手の鎌を振り下ろす。
ザラリ、と、砂の音が鳴った。
コウの体が、崩れ落ちた音だった。
それ以外の音は、なかった。
半身をもがれるような、言葉では言い表せない苦痛の中、コウは声一つ上げることはなかった。
もがれた片翼は、カズナの手に吸収されていく。
音もなく、あるべき場所へ、戻るように。
「私は預かるだけ……。お前のいる場所は、地獄でしかあり得ない」
それは、課せられた業を為したとき、彼に片翼を返すということ。
すなわち、少女が地獄に堕ちた時、彼は悪魔に戻るということ。
「……随分と、……優しいんだな……」
ぜいぜいと息を漏らしながら、それでもコウはいつもの、何処か見下すような笑みで、
カズナを見上げて呟いた。
「私の、気紛れだ」
その姿を見返ることなく、カズナは返す。
「その気紛れ……何十年も、続けば良いけどな」
「……私たちにとって何十年など、一瞬に等しい。それはお前も知っているだろう」
「ああ……カズナ」
カズナの、禍々しくも美しい両翼が、コウの眼前に広がる。
それは力の源。
それは悪魔の象徴。
その半分を削がれたコウは、悪魔にも――人間にもなれない、中途半端な自分を
自虐的に笑った。
それでも良いと、そう思ってしまった自分を。
コウは砂に塗れた体で、笑った。
今までカズナには見せたことのない微笑を、浮かべた。
「サンキュ」
「……お前に礼など似合わん」
そう言ったのが、最後だった。
カズナの体は消えていく。
――異界へと。
片翼では戻れぬ、地獄の世界へと。
「ああ……似合わないな」
コウは、カズナの言葉に、そして自分の言葉の滑稽さに、笑った。
今の自分は悪魔にも人間にもなれない。
なれど、天使に相応しいその言葉を紡ぐことは、何よりも滑稽だった。
夜の闇が、薄れ行く。
赤い太陽が、闇をかき消していく。
そんな光を見ることなど、もう二度とないと思っていた。
「……う……」
「……おー、目ぇ、醒めたか」
コウは少女の隣に座ったまま、海を眺めていた。
海と、その遥か遠くに見えるものを。
「ここが……地獄?」
少女は茫洋としながら起き上がると、まず自分の手を見つめた。
そして、隣に座る青年の姿を、見た。
「コウ……貴方、翼が……」
不自然に片翼がもがれたその背を見た時、少女は言葉を失った。驚きを隠さずに、
両目を見開いて、彼の背に見入った。
片翼だけ残された悪魔を見るのは、あまりにも痛ましい光景だった。
「お前の名前、ちゃんと聞こえなかったからな……」
「浅真光季……私はちゃんと、そう、言ったわ。そんなの、何の理由にもならない」
常に持ち合わせていた冷静さを失って。無感動だったその心を、動かして。
彼女は、コウの横顔を、見つめた。
何故片翼しかないのか。それを示す理由には、ならない。
「みつき……か」
彼女には答えずに、何度も何度も、口の中でコウはその名を繰り返す。
真っ直ぐに、前を見つめたままで。
「お前に出会って、陽(ひ)を……光を眺めるのが、俺の運命だったらしい」
光季はその時初めて、空が朝焼けに染まっていることに、気付いた。
赤く、強く、眩しい光が。
悪魔を、照らし出している。
「お前はこの世界で色んなものを視れば良い……。地獄に行くのは、その後でも十分だ」
「…………………………」
「それまでは、俺がちゃんとお前を見張っててやるさ」
コウは変わらぬ口調で、そう、続けた。
少女は問い詰めようとして、その言葉を、飲み込んだ。
彼の瞳に映るものをみて、ただ、ありがとう、とだけ呟いた。
そは空を往くもの。
そは海を往くもの。
そは片翼を持つもの。
つきに出会ひてひを眺むるもの。
彼は確かに、陽を見つめていた。
冷たい手に片翼をもがれた背を触れられながら、光に染まりいく青を、眺めていた。
(終)
「MOONSHINE」さんで、カウンタ21000をげっといたしました☆
リクエストは、
「そはそらを往[ゆ]くもの。
そはうみを往くもの。
そは片翼を持つもの。
つきに出会ひてひを眺[なが]むるもの。」
(「そら」「うみ」「つき」「ひ」は当て字可)でした。
こんな訳のわからないリクエストでしたのに、素敵な作品に出来上がっててすごいですv
ありがとうございましたvvv
コレを書かれた野木さんのサイトはこちらです。
まだ行った事のない方は、ぜひぜひ行くべしです!!
TOP
CLOSE
NOVELS
MAIKA