青の森




 北の大地の森は深い。未開の地と呼ばれるここ、カムスヴィア大陸では特に。 世界に名の知れた冒険者クローノ=ミュネスの地図によると、カムスヴィア大陸の西の端、 フィーノ岬とクーベスタ山との間に、青の森は記されている。地図上では小さな森だが、 中に足を踏み入れてみると、ぐるり囲まれる高い木々に圧倒され、 森はどこまでも続いているかのように思われる。
 緑の細い葉を茂らす針葉樹。大きな背を持つ木々たちは、槍[やり]のようなその先を、 高く高く空へと向ける。一見静かな森の中は、音が木々に反射され、響いて音源を不確かにする。
 そのため、大陸にそびえ立つ「空を支えている」と言われる支柱が見えなければ、 方角すらもつかみにくい。
 森に慣れた大人でさえ迷うことがあるのだから、視点の低い子供ならなおさらのこと。 森には獣も多く住む。 迷ったあげくに獣に喰われて亡骸[なきがら]のみが見つかるという場合も少なくない。
 だから、森の近くに暮らす大人たちは、口を酸っぱくして子供たちを諌[いさ]める。 森には行ってはいけないのだと。…青の森には、魔女がいるから。






 曇った灰色の空。吐く息は白く、赤く染まった頬[ほお]をかすめて流れてゆく。切られるような空気。それにもひるまずに、ただ前を見据えて進んでゆく。時間のわからない明るさの中、ひたすらに平原を歩く。ひらけた地のため、強く吹く風は直[じか]に体に当たり来る。
 どれぐらい歩いて来たのだろう。少女はふいに立ち止まった。目の前にあるのは、高い高い、木々。それを見上げて、口を真一文字に引き結ぶ。そしてそのまま、少女は森へと足を踏み入れた。
 薄暗い、森。
 夏にある、繁る雑草の代わりにあるものは、足を滑[すべ]らす白い雪。 それを踏みしめ奥へと進む。方向を確かめるために、 大陸の中央―――東側にある支柱を振り返ることもしない。ただひたすら、何かを目指し前へ進む。
 迷いもなく奥へと進む少女は、けれど正確な道を知っているわけではない。ただ、 求める場所への道の噂[うわさ]を聞くばかり。やがて冷たく透明に流れる川に突き当たり、 少女は上流へと足を向けた。凍ることのない小川の源は、森の中心部にあるのだと誰かが言っていた。
 ぎしぎしと、足元の雪が音を立てる。マントすら羽織らずに夏場と同じ、袖[そで]のない、 汚れくたびれたワンピースで進む少女の体は、芯まで冷えている。指先の感覚など、もはやない。
 痩[や]せた体にぎろりとした大きな目。赤茶のくせ毛は梳[す]かれた様子もない。 いつ倒れてもおかしくない状態で、それでも奥へ奥へと進む。

 ずるり。

 足をとられ、雪の上へ倒れ込む。枝に腕を引っかけて、右腕から血がにじみ出た。雪の上に散る、 赤い花。
 身を起こした少女はそれに少し眉を寄せ、けれど再び立ち上がると足を進めた。 じくじくする痛みと凍る感覚。足は疲れて重いが、それでも立ち止まることはできない。


『願いを、叶えてくれるんだって』


 村で耳にした噂。
 青の森の魔女は、どんな願いをも叶えてくれるのだという。
 それを聞いた瞬間、少女の胸に灯[ひ]が燈[とも]った。


『それはどんな願いでも』
 青の森の魔女ならば。


 ぎしり、と雪が鳴る。
 木々をかき分けて奥へ奥へと進んだ先に、小川の源が見えた。
 こんこんと湧き出る、小さな泉。

 がさり。

 何かが少女の後ろに躍り出た。しなやかな身体。光る目は濃い緑。
 雪の上に足跡を残すそれは、大きな山猫だった。少女と距離をとり、対峙[たいじ]する。
 山猫は、少女を値踏みするかのようにじろりと睨[にら]みつけ、 そのまま少女が何も反応を返さないのを悟ると、やがて大きく一声鳴いた。
 その瞬間、何か、大きな気配が少女を取り巻いた。
 大きな、大きな気配。
 まるで、森全体が放っているかのような感じ。
 やがてそれは一つに収縮し、少女へと襲いかかった。
「!!」
 目を閉じてそれを受け止める。嵐のようなそれが自分の中を駆けめぐったのを感じた後、 再び目を開けると、目の前には変わらず山猫が少女を見据えていた。
 山猫に、少女は口を開く。
「望みを叶えてもらいに来たの」
 さっきの嵐のような感覚に、山猫はこの森の意志だと知ったから。
「名前が、欲しいの」
 少女には、名前がなかったから。拾われた時には、<捨て子[キマ]>と呼ばれていたけれど。
 山猫の目が光る。瞬間、少女の頭に問いがなされた。
「別に、叶えてもらうのは魔女じゃなくてもいいわ。願いが叶えば、それでいい」
 山猫はその答えに、少し目を細めた。
「ええ、いいわ。それが代償ならば」
 少女が答えると、山猫は再び鳴き声を上げた。
 木々を揺らし、声は森に響く。
「<森の子供[さわら]>? それが、名前?」
 頬を紅潮させて少女は問う。
 山猫は、ひらりと身をひるがえした。
 少女はその後に続く。
 森深くへと、二人は消えた。










 青の森に『魔女』が誕生したのは、深い雪の日だったという。









The End.




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