それは、緑の国の深い深い森の中に、まるで、何かから隠れるようにひっそりと建っていた。
 けれど決してあばら屋というわけではない。一見、白かと思う程淡い緑の大きな建物。 深い深い森に護られるようにして建ってはいたが、日の光はちゃんとその建物へと届いている。
 やわらかな雰囲気を醸[かも]し出し、時折、森の住人たちも訪れるその建物は、 「緑の神殿」と呼ばれていた。

 白の国、南の砂漠を発った二人は、白の国を出、 滅多に人の来ないというその神殿へとやって来ていた。
 人が来ないからといって、緑の国の守護神信仰がさびれているというわけではない。
緑の守護神は、長い緒を持つ美しい鳥だと言われている。時と大地を司る守護神は、 緑の国のどんな時代にも、どんな場所にでも存在する。だから祈りを捧げる場所は、 緑の大地であればどこでもかまわない。わざわざ森深くの神殿に来なくてもよいのである。 だから、緑の神殿に人が訪れることは珍しいのだという。
 ルナは、『白の涙』がどんな物なのか知らなかった。だからといって、 白の神殿へ行くことはできない。そのため、隣の国にある緑の神殿へとやって来たのである。 また、ラークの母親が療養のために緑の神殿にいる、というのももう一つの理由となっていた。
「いらっしゃい、ラーク。そちらのお嬢さんは、はじめましてね」
 そう言って笑顔で迎えてくれた彼女は、木陰[こかげ]で読書をしている所だったらしく、 膝[ひざ]の上には、しおりを挿[はさ]んだ本が乗っていた。
 細身の体を覆[おお]うような、ゆったりとした長衣。歳は、四十ぐらいだろうか。 ひとつに束ねている長いダークブラウンの髪には白髪が所々に混ざり、 微笑んだ目元には小さな皺[しわ]が刻まれていた。
「寝てばっかりじゃあ、体に悪いと思って。少し本を読んでいたの」
 こんな所にいて大丈夫なのかと心配するラークに、彼女はそう応えた。
 彼女の笑顔にちらちらと木洩[こも]れ日が揺れる。 彼女の周りには穏やかな空気がとりまいていて、時がゆっくりと流れているようだった。
 お茶でもいかが? と、彼女に案内された場所は中庭だった。四方を建物に囲われた中庭は、 けれど柔らかい日の光が射し、花壇には彩る花たち。風の通り道もあるらしく、 植えられた木々は枝をしゃらしゃらと鳴らす。木陰には、白いクロスのかかったテーブルと、 温かみのあるイスが置かれていた。
 お茶を淹[い]れてくるから待っていて、と台所へ向かおうとする彼女に、 ラークは自分がするからと彼女をイスに座らせた。取り残されたのは、初対面の女性と少女。
「えーっと、初めまして。あたし、ルナ。クゥイン・テルナ……です」
 何をしていいかわからないルナは、目の前の女性にとりあえず自己紹介をした。 普段は絶対に使うことのない敬語を使おうとしているためか、どことなくぎこちない。 対する女性は悠然[ゆうぜん]とテーブルの向こうに腰かけている。
「私は、サイア。これでも一応、ラークの母親なの。よろしくね」
 ふわりと微笑むサイアは、とても病気だとは思えなかった。
「あの、あたし、サイアさんは病気だって聞いてたんだけど、お元気そう……ですね」
 ルナの言葉にサイアは軽く驚き、ラークがそんなことを言ったの? と、優しく息をついた。
「今はね、だいぶん良くなったの。私、白の涙を探してずいぶん長い間、 世界を周っていたのだけれど、途中で倒れてしまってね。お医者様には、 気を張りつめすぎたんだろうって言われたわ。それと、心臓も悪くしているって。 …やっぱり年なのかしらね。だから今は、療養って名目でここにいるの。ここは、 気候が穏やかだし、緑も多いし、何より静かで落ちつけるから」
 いつまでもつかわからないけど。
 そう言って寂しげに微笑むサイアに、ルナは自分にできることを何かしてあげたい、 という思いに駆られた。
「あの…」
 ルナが口を開きかけたその時、中庭へと続く扉が開いた。
 見るとラークがトレイを手に、こちらへと向かってきていた。 トレイの上には菓子とお茶の用意が乗っている。
「あら、早かったのね」
「巫女[みこ]さんが用意してくれたんだ。俺はそれを運んだだけだから」
 言いながら、トレイをテーブルに置く。
 サイアがカップにお茶を注ぐと、辺りにいい匂いが広がった。
「冷めないうちにどうぞ」
 勧[すす]められて口をつけると、鼻が通るような匂いと共に、 意外とさっぱりとした味が口いっぱいに広がった。
「あ。おいしい」
 南の砂漠では飲んだことのない味だった。
「そう。よかったわ」
 にっこり笑むと、サイアもお茶を口にした。
 サイアの上に、木洩れ日が踊る。その様子はまるで一枚の絵のようで、 ルナは一瞬見とれてしまった。
(こんな人が病気なんて…)
「あの……あたし…」
 ルナはカップを置いて、正面からサイアを見た。
「なあに?」
「ルナ?」
「あたし、魔法が使えるんです。…だからあたし、サイアさんの病気、治せるかもしれない」
『え……?』
 ルナの台詞[せりふ]に、二人は同時に声を上げた。
「えっと、確かルナさんだったわよね。あなた、魔法使いなの?」
 ルナは、サイアの質問に首を振った。黄土色のやわらかな髪が左右に揺れる。
「違います。あたしは魔法使いじゃないけど、魔法が使えるんです」
「お前、回復の魔法も使えたのか?」
 ラークの問いに、ルナは不敵な笑みを浮かべてみせた。
「ラーク、あたしは白の国の民なのよ?」
「あ。」
 白の国の守護神は、回復と風を司る。白のシャーレであるというルナが、 回復の魔法を使えたとしても不思議はない。
(本当は、あんまり使っちゃいけないんだけど)
 ルナはこっそりと思う。
 自分の魔力は強い。ちょっとした怪我[けが]を治すことなど苦でもない。けれど、 そんな小さなことで魔法を使いすぎれば、体が魔法に慣れてしまい、 今度は魔法がなければ治らなくなってしまう。そうならないように、 ルナは魔法の師匠とジンの両方にきつく言い含められているのである。
 けれど今回のものは、それに入らないだろう。これを彼女に使うのはきっと一度きりなのだから。
「母さん、ルナの魔法の力は俺が今まで見た中で、一番強いと思う。病気、治したいだろ?  ダメもとでも、やってもらったら?」
 意気込むラークにサイアは俯[うつむ]き、瞳を閉じた。
 やわらかな風が過ぎる。
 しばしの沈黙の後、ゆっくりと目を開けた。
「……そうね。ダメもとね」
 呟[つぶや]いて、顔を上げる。
「…お願い、できるかしら?」
「サイアさんさえ、よければ」
 ルナの応えに、サイアは優しく微笑んだ。



BACK   NEXT

TOP   CONTENTS   CLOSE   NOVELS   MAISETSU