佳名 ほづみ[かな ほづみ]が深町 恵[ふかまち めぐむ]と出会ったのは六月半ば、 梅雨の晴れ間の事だった。
 遠くから射す光。
 風はなく、けれど空気は水の匂いをたっぷり含んで、 まだ雨期は明けていないのだと主張する。垣根[かきね]に灯る濃い緑が蒼の空に映えて、 葉先からこぼれた滴[しずく]が地面をしんなりと湿らせていた。その向こうには、 雨に色づいた紫陽花[あじさい]。
 ほづみは、この時とばかりに買い込んで、ずしりと重くなった買い物袋を両手に提げ、 天[そら]と影の映る水溜[みずた]まりを前にしていた。元々、 この道は水はけがあまり良くないのだが、この日は特に酷[ひど]かった。
 大きく繁殖[はんしょく]した水溜まりは道にべったりと横たわり、 見事に行く手を塞[ふさ]いでいる。長さも相当なもので、 とてもではないが両手に荷物を持ったまま、ひらりと越えられそうもない。

 近道なんて、するんじゃなかったわ。

 荷物が重いので、いつもは通らない抜け道を通ろうと思ったのだ。けれど、 まさかこのような事になっていようとは考えもしなかった。
「どうしよう…」
 ここまで来ると、引き返すのも面倒くさい。
 底なし沼ではあるまいし、いっそ水溜まりを越えて行こうか。
 そう決意した時、後ろから大きな足音が聞こえて来た。どうやら走っているらしい。
 ほづみがそこまで考えた時。


 ばしゃり。


 猛スピードで駆けてきた青年が、目の前で、空を映す水溜まりにダイビングしていた。
 ほづみがそれを認識する前に、青年はむくりと起き上がる。
「うわっ、あっ書類!?」
 見事にずぶ濡[ぬ]れになった青年は、 そう言うと水に浸[つ]かった鞄[かばん]を急いで引き上げた。
 ぼたぼたと勢い良く雫[しずく]が落ちる。革の鞄は水気を吸って、 何だかくったりしているようだ。その中からいそいそと取り出した紙の束は、 水気に当てられ雫こそ垂れないものの、インクが滲[にじ]んで使い物になりそうもない。
「……くはぁ。」
 肩を落として息を吐[は]く。その前髪からポタリと雫が落ちた。

 青年のいきなりの出現にあっけにとられて、けれど何だか可哀相[かわいそう]になって、 気がつくと、ほづみは手提げの中に入れていたハンドタオルを差し出していた。

 別に、イイオトコなわけじゃないけど。

 あんまり突然に現れて、あんまり豪快[ごうかい]に水を被[かぶ]って。 あんまり辛そうな顔をするから…。気まぐれで差し出したタオルを青年が受け取ると、 ほづみは軽く会釈[えしゃく]して水溜まりに背を向けた。
 水溜まりに取り残されたこの青年こそが、深町 恵であった。けれど、 ほづみがその名を知ったのは、ずいぶんと後のことである。名を知ることができたのは、 ほづみが受付嬢をしている会社が、 たまたま恵の勤める会社の得意先であったというだけなのだけれど。





 ハンドタオルを返すという口実で夕食に誘われて、話してみると思いがけなく波長が合って、 楽しくて。だから、その後も何度となく会って……。
 気がついたら、ほづみの心の奥にはレンアイの泡がぷくりと生まれていた。
 優男[やさおとこ]でどこか抜けている所があって、けれど一度目標を決めると、 それに向かってまっすぐに突っ走る人。お人好しとも言えるかもしれない。顔立ちだって平均的で、 決してカッコイイとか言えるわけでもなく、ここだけの話、ほづみの好みからは少し外れている。 …けれど、一緒にいると気持ちの安らぐ人。
 もちろん喧嘩[けんか]もするし、欠点だってたくさんあるし、 辛い時がなかったわけではないけれど。それでも恵は、ほづみにとって大切な人になっていた。
 そう、確かに幸せだったのだ。……アヤの存在を知るまでは。









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