アヤ―――――立石 アヤ[たていし あや]。
 香水のむせるような匂いを振り撒[ま]く、化粧の濃い年齢不詳の女。キツい顔立ち。 けぶるような、だるい話し方、仕種[しぐさ]。気に障[さわ]る態度。はっきり言って、 ほづみとはそりの合わない部類の女。…そして恵の―――同居人。
 そう、同居人。「彼女」でなく、「同居人」。
 恵[めぐむ]に訊[き]くと、常と変わらぬ穏やかな口調で笑って答えたのだ。
「彼女ではないですよ」と。
 けれど……。
 アヤの冷たい眼差しを思い出して、ほづみはきつく瞳を閉ざした。
 静かな怒りを溢[あふ]れんばかりに湛[たた]えた、 けれど凍[い]てついた印象を与えるあの双眸[そうぼう]。

「アンタさァ、恵のメーワク考えてンの?」
 恵の名で呼び出されたそこには、呼び出した当人の姿はなく、 派手な格好の女が腕を組んで待っていた。
 灯台の遠い光。吹き抜けるのは、潮の匂いをふんだんに含んだ冷たい風。厚い雲に隔てられた、 薄暗い夕方。
「それにさァ、恵とアンタなんかじゃツリアイとれてないの。わっかんない?  アンタなんかと並んでたら、恵がカワイソウだわ」
 無性に腹が立った。どうしてこんな女にそんなことを言われなければならないのか。 言われる筋合いはほづみには、ない。
「だからさァ。―――――別れなさイ?」
 見下すような命令形。自分こそが決定権を持つのだとでも言いたげな。
「嫌よ」
 反射的に出た言葉は、それでもほづみの本心であったから。 睨[にら]んできっぱりほづみは告げた。
「私はあなたにそんな事を言われる理由も、恵と別れる気もありません」
 …先に手を出したのはどちらだったのか。
 相手の髪の毛をつかみ、つかまれ。叩[たた]かれ、叩き返し、引っかき傷をつくり……。 まるで子供のように、けれど互いに本気で、二人は取っ組み合いの喧嘩[けんか]をしていた。
 そして……。

「きゃああぁぁああっっ」
 悲鳴の次に聞こえたのは、何かが水中へ落ちる音。
 手に残ったヒトの感覚。
 目の前から消えたアヤ。
 その後には、ごぼごぼという水音。
「ア、ヤさん?」
 見ると、アヤは手をばたつかせて必死に泳ごうとしていた。
 冬の、冷たい海。陽は沈み、ただでさえ低い水温は昼よりさらに落ちている。 コートや衣服はその冷たい水を吸って、アヤの体に纏[まと]いつく。それは動きを鈍らせ、 体温を奪い……。



 ごぽり。



 最後の、一泡[ひとあわ]。
 最期の、一泡。


 汽笛が遠く、ぼうと咆[ほ]えた。









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