「御免[ごめん]なさい。御免なさい。御免なさい」



 そんなつもりではなかったの。



「御免なさい。御免なさい。御免なさい」



 何もすることはできなかったけれど。



「御免なさい。御免なさい。御免なさい」



 だって、怖かったんですもの。



「御免なさい。御免なさい。御免なさい」



 怖くて、怖くて、怖くて……。




 アナタヲ助ケルコトガ怖クテ。

 アナタニ取ラレルコトガ怖クテ。




 ……ごぽり。




 闇に響く音に、ほづみはびくりと体を震わせた。
 壁とドアに切り取られた細い光の中、浮かび上がるのは汗をかいたグラス。


 ――――――フルーツジュース。


 カラン。

 氷が小さく音を立てる。

 こぽり。

 浮き上がる、泡。
 泡、あわ、アワ……

 こぽり。

 彼女の、最期。

 ごぽり。

 彼女は、消えた。けれど…。


 メグムハ ワタシ以外ヲ 好キニナルカモ。


 私はもう一緒にいられないから。

 …こぽり。

 恵の入れてくれたフルーツジュース。
 恵が入れてくれたフルーツジュース。

 指先でそっと押すと、ガラスのグラスはかたん、と倒れた。
 床に広がる、どろりとした液体。…私の、液体。


 私ハ恵ト モウ一緒ニイラレナイ。


 彼女が消えてしまったから。
 彼女ガ沈ンデシマッタカラ。

 ナラバ……。



 ほづみはゆらりと立ち上がると、冷たい床をひたひたと裸足[はだし]で台所へと向かった。キィ、 と扉を開け、流しの下から取り出したそれを手にすると、恵のいるであろう居間へと向かう。
 居間の白い光の下には、ニュースの声とこたつでうたた寝をしている―――恵。 ほづみの愛しい人。
 愛しい愛しい、ヒト。
 ゆっくりと近づく。
 恵に、ほづみの影が落ちる。
「ん…。あ、佳名さ…」

 まずは、右目。

 ほづみの手にした小型ナイフは、ざっくりと恵の右目に突き刺さった。
「う…あ、え…」

 そして、左目。

 もう一本が、恵の左目にざくりと突き刺さる。
「うわぁぁああぁぁあああ」
 耳を劈[つんざ]く絶叫。
 けれど、ほづみにはそれすらどこか遠い所での出来事のように聞こえていた。

 そして最後は……。

 両目を押さえ床に倒れた男の体に、ほづみは深々と包丁を突き立てた。
「うぐ…っ。か…は…」
 弱々しい、呼吸[いき]。
 どろり流れる、液体。
 ……私の、液体。
「んふふふふふふ…」
 口元には笑み。
「…愛してるわ」
 愛しい愛しい、ヒト。
 吐息[といき]で告げると、ほづみは部屋の戸をぱたんと閉めた。
 残される赤の液体――――――――


 こぽり。


 何処[どこ]かで泡の浮き上がる音が聞こえ―――――――――












 N湾沖で二人の女性の水死体が発見されたのは、ほづみが姿を消してから三日後、 雪の舞う日のことであったという。














 …ごぽり。




 闇の何処かで、泡の浮かぶ音がした。









The end.





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