巡ル想ヒ



「……無事か?」
 ずっと上方を、ジャングルジムの頂上とそれに続く宵闇を見上げていた灯だったが、近づいて きた足音に顔をめぐらせた。
「お陰様で、少しすりむいた程度で済みましたよ」
 蒼は左手でずれた黒いシャツの襟元を正しながら、右手を開いてみせる。その手のひらは砂に覆われ少し血が 滲んでいたものの、大した傷ではないのは明らかだった。相手に傷つけられたというよりも、避ける時に 自分で作ったものなのだろう。
「油断も隙もねーな、奴らは……」
 内心安堵しながらも、決してそれは見せずに灯は両手をジーンズのポケットに突っ込みながらそう毒づいた。蒼は微苦笑を浮かべ、開いた手のひらを ゆっくりと閉じる。
「私自身でどうにか出来れば良いんですけれどね。私の力は限られていますから」
 どうしようもないのだと、言外に言い含めながら蒼は言った。蒼の言い様に、灯は目を伏せて舌を打つ。
「そもそもお前が出張る必要があるのかっつーのが俺の疑問なんだけどな」
 小声で呟いた灯に、蒼はさして何も言いはしなかった。代わりに言ったのは、彼が求めてはいない 賛辞だけだった。
「灯の影響力は相変わらず強力ですね。感心してしまいますよ」
 灯の影響力――それは、他ならぬ『霊』にもたらす力。
 外的な力を加える訳ではない。けれど灯は確実に蒼を守り、霊を撤退させた。
 ただ思いのまま発せられる、その声だけで。たった、それだけで。
 それは内的に作用する力。
 霊の内部に響き、働く力。
 霊感が強いというだけの者では為しえない。霊に慕われ、集われる者だけが持つもの。
 それは、氷城の者が決して得ることの出来ない尊き力なのだ。
「感心すんな。……それで? 収穫は?」
 狙われてまでここに来た収穫はあったのか。花の問いを投げかけ、再び消えた霊についてどう感じたのか。 その両者の意味を込めて、灯は極めて端的に尋ねた。蒼はその問いに、月の光に照らされて一層白く 輝く顔を上下させる。
「ここに感じた残留思念と、先程の力は一致するようです」
 霊と一口に言っても、それぞれ持つ『思念』は違う。人それぞれ持つ姿や能力が違うように、霊にも それぞれの『形』があるのだ。
「つまり、だ……」
 ここに来て一番長いため息を、灯はついた。
「潮の訳わかんねー勘が、大当たりっつーことだな……」
 非常に不愉快な、憮然とした表情で、灯は吐息交じりに呟いた。
「それはそうと、灯、それ、良いんですか?」
 蒼は怪我をしてない方の手で、それを指差した。灯が放り出した携帯電話が、おぼろげな光を放っている。先方は辛抱強く 切ることはせずに通話の状態を保っていたようだ。完全に携帯の存在を忘れていた灯はげ、と声を漏らすと慌てて携帯に駆け寄り、 それを取り上げた。
「もしもし? わり」
『日高! 大丈夫なのか?』
 遠かったはずの電話は、今はすぐ近くに聞こえた。耳を劈くほどの声に、灯は思わず電話を 耳から引き離す。おそらく向こうはずっとこの調子で呼びかけていたのだろう。 霊の放つ波動がこの携帯にも影響し、声を遠ざけていたのだ。通話していた真上に降り立っていた ことを考えれば不思議な話ではない。
「平気、何もねぇ。……そういやさっき、何か言ってたよな? 写真がどうこうって」
『ああ、それは……』
 改めて相手の話を聞き、灯は蒼を一瞥すると、小さく頷いた。
「明日、取りに行く。別に害はねーから、ちょっと預かっててくれ」



 公園を後にした二人は、真っ直ぐに氷浄寺に向かった。もうそれ以上、現場を調べる必要はなかったからだ。寺の中に入り、傷ついた手をまず洗う為に洗面所に向かった蒼を放り、灯はずかずかと歩を進めた。そして目的の部屋にたどり着くと、 既に夜更けを回っていたが、灯は遠慮なくその引き戸を開け放す。 余りの勢いに音を立てて跳ね返ってきた戸を彼は片手で受け止めた。
「起きやがれ、こんの馬鹿坊主」
「美しい女性の夜這いは大歓迎だけど、灯に襲われてもぞっとしないな」
 その部屋の主、潮は寺に似つかわしくない実に近代的な内装の部屋で、 眠るでもなくデスクに向かっていた。こちらの部屋の方が現代的ではあったが、 引き戸がつなぐ世界とはまるで異次元に来たかのようだ。この寺そのものの造りとは不釣合いこの上ない。
「安心しろよ。俺にそんな趣味は微塵もない」
「だろうねぇ」
 あくまで茶化しながら、かつこちらを見ようともしない潮に、灯は中に入ると戸をしっかりと閉め、その場に仁王立ちになった。
「蒼が狙われたんだけど」
「ふぅん」
 気のない返事で、潮は灯が来る前と同じようにパソコンを、マウスを弄っている。灯は斜め下を向き、 必死に我慢しようと拳を固めた。そのまま動けば潮の後頭部を張り飛ばしてしまいそうだった。
「お前が行ってりゃ、んなことなかった……そもそも全部、あの場で解決してたと思うんだけど?」
「そうかもねぇ。俺と蒼の力は根本的に違うものだからねぇ」
「だったら何でノコノコ蒼に行かせるんだっつー話なんだよ!」
 固めた拳のまま、灯は背後の戸を殴りつける。戸はガタリと鈍い音を立て、枠から外れた。
「だったら一生蒼をここに閉じ込めとく? 蒼は生の人間だよ?」
 つと視線を向けた潮に、灯は思わず言葉を詰まらせた。
「相手は本能的に向かってくる。俺達は除霊師だからね。向こうにとっては天敵、理屈もなく 俺や蒼は狙われる。それは、わかっているよ?」
 一度言葉を切り、潮はつけていた眼鏡――パソコンを使用する際の、シールドグラスだ――を 外して灯に向き直る。
「俺には身を守る術がある、蒼にはその術は限られている、それもわかっている。けれど、そんなことは 蒼も百も承知だし、それでも蒼が外に出るっていうなら俺は止めない。止める必要がない。それに、 今日は灯も一緒だった訳だし?」
 流れ出る潮の言葉に、ますます灯は自分の立場が悪くなっていくことを感じる。本当にこの男は性が悪い。 激しく怒りをぶちまけることはないが、流氷のような冷たさで責めてくる。そしてその『顔』を、 この自分には余すことなく見せつけてくるのだ。
「……それで? 灯チャンが一緒にいて、うちの蒼が狙われたっていうのがいまいち腑に落ちないんだけど?」
 灯は自分を見つめる潮の目に、歯を軋ませた。反論したかったが、そのふざけているくせに人を射るような目に、 文句をつけることが出来なかった。
「……目ぇ離してたんだよ、悪かったな」
「君は自分の特殊性と能力をもっと自覚していた方がいいな」
 潮が灯を君、と呼ぶことなど滅多にない。こういった場面だけだ。灯は潮の言い様にそっぽを向いた。 素直に聞いてやるには余りにも腹立たしすぎた。
 この男の二面性を、どれだけの人間が知っているのだろう。
 明るく、ふざけた性格をしておきながら、その実、誰よりも頭が切れ、計算高く、冷徹である。
「君は霊から本能的に守られている――害を及ぼされることもなければ、彼らは君の命令に従う ことだってある。けれどそんな人間、俺は他には知らない。君が、特別なんだ。君は自分で何かをするわけでなくとも、 ただ傍にいるだけで、ただその意識の中に入れておくだけで、蒼を守ることが出来る。 そして、俺はそう、君に頼んでいる……そうだな?」
「……そうだよ」
 灯の特殊性と、氷城の業――それは、正反対の気質。
 氷城は決して霊に好まれることはない。氷城が霊を浄化、除するように、霊もまた、自らを絶つ 氷城の者を消すがために動く。それは潮の言うとおり、理屈ではない。霊の中にも組み込まれている本能、 根絶への恐怖がそう為せるのだ。
 一方で灯は、本人の望みとは関係なく、霊と親和する力を有している。霊は自分達を理解する者として 灯を害することは決してない。それもまた、彼らの中に組み込まれた直感がもたらすものなのであろう。
 灯と行動することにより、その彼独自の特殊性により、氷城の業は緩和される。 灯と共に、灯の意識がその人物に向かっている限りは、余計な霊に狙われることはない。 灯という存在を知ったとき、その法則を見出したのは他でもない潮であった。
 そして、潮は灯に『依頼』しているのだ――蒼を守れ、と。
 蒼本人の、知らないところで。
「自分の落ち度を人に転嫁するのは良くないな。灯が一緒にいる限り安全と危険は常に隣合わせにある。どうあっても、 君が呼び寄せた霊が、蒼を襲うことだって十二分にあるわけだよ。それを肝に銘じておいてくれないと 困るよ?」
 『霊』は、条件反射的に蒼を襲う。それは灯の元に集まった霊も例外ではない。けれど、灯が蒼を守っている限りは、その危害が 加えられることはない。
 リスクは勿論ある。
 だが灯が彼を『守る』ことで、蒼は、自分の意志で自由に動けるのだ。
 氷城の『業』から、解き放たれた状態で。
「で、こんな時間に怒鳴り込んできた用件はそれだけなのかな?」
 潮の目にはもう、灯を責め立てた時のような険は見当たらなかった。ただ面白おかしく事を運ぼうとする いつものふざけた人格がそこにはあった。
「……後で、蒼も言いに来ると思うけど」
 踵を返し、戸に手をかけた状態で灯は静かに切り出す。
「俺の見た『霊』と、今回のヤツ、同じみたいだぜ」
「そう」
 さして驚いた様子でもなく、平坦な口調で潮は相槌を打った。
「さて、俺は寝る間も惜しんでこれからまだまだ仕事があるんだけど、そろそろお暇してくれる? ああ、蒼にも 邪魔させないでね」
 その言葉を聞き、隠された真意を読み取った灯は軽く息を吐いた。
「素直に休んどけって言えないのかよ、お前らは……」
 決してストレートには優しさを見せない潮に、灯は呆れる。けれど潮はそれに聞こえないフリをして 再びパソコンに向き直ると、それから灯が出て行くまで見返りもしなかった。



「随分騒いでらしたようですね」
「……お前、心臓にわりい」
 潮の部屋から出たその途端、出くわした影に灯はぎくりとした。目の前に立つ彼は外出用の 衣服を既に脱ぎ、いつもの着流しに袖を通していた。勾玉は相変わらず彼の胸元にあり、 月の光を帯びて灯の戸惑う顔を映し出していた。
「手当て、終わったのかよ」
「ええ。この通りです」
 蒼は包帯を巻いた右手を差し出し、灯の目の前にかざして微笑する。そか、と灯はいい加減に答える。
「……ああ、潮なら本人いわく『まだまだお仕事中』らしいから邪魔すんなって。今行ってもまともに 相手してもらえねーぞ」
「そうですか。では、仕方ありませんね」
「そゆこと。じゃ、俺帰るわ」
 まんまと話をそらすことに成功したかに思えた灯は軽く手を挙げてそのまま蒼の隣をすり抜けようとする。 しかし微笑を浮かべたまま、白くすらりと長い手は掲げられた灯の左手を掴んだ。
「私が狙われたのは灯のせいではありません。ましてや潮の責にはなりえないことです」
「………………」
 灯は無言で蒼を見つめる。蒼は薄い微笑を口元にたたえ、灯を見つめ返す。しばらく無言で視線を 交錯させてから、灯は首を左右に振った。
「俺は個人的にあのナマクラ坊主に話があっただけだけど?」
「そうですか」
 蒼は軽く笑むと、掴んでいた灯の手を離した。
 灯の『嘘』に気付いているのかいないのか。潮との会話の、何処まで察しているのか。その真意は、読み取れない。
 自分と潮の間にある密約を、蒼は見通しているのではないかと、灯は時として感じる。けれど、お互いそれを 口にすることはなかった。触れてはならない腫れ物のように、見て見ぬフリを続けていた。
 公言することで、何かが崩れてしまうのではないかと。何かを、崩してしまうのだと。灯は、そしておそらく 蒼も、そういった言葉には出来ない危機感を感じ取っていた。
 だから、触れない。
 ――だから、完全には、交われない。
「そこまでお送りしましょう」
「いらね。お前は寝てろ」
「寝付けないんですよ。……寺の中でなら灯の手を煩わせることもないでしょう」
 早足で歩き始めた灯の横に、一分も速度を違わず蒼は並んだ。灯は小さく嘆息するとそれ以上止めることも しなかった。一度言い出せば聞かない頑固な面があるということは、よく知っていた。
 この寺の中にいる限り、蒼は、氷城の人間はその業から逃れることが出来る。
 霊的な存在はこの空間の中では邪念を放つことが出来ない。そういう特殊な結界が張ってあるらしい。 灯はそう潮に聞いたとき、何となくは理解できた。結界そのものについては自分の立ち入ることが出来る 世界ではないが、この寺の中は清廉で、研ぎ澄まされている。こうやって歩く廊下も、縁側も、庭も、それぞれの部屋も、俗世と呼ばれる 自分達の世界にはない清浄な力に満ちていた。おそらくは、他の何処よりも『綺麗』な 空気の中にあるのだろう。それが結界の効果なのだとしたら、少しだけわかる気はした。
「……別に俺は煩わされてる覚えはねーんだけどな」
 自分は、ただ傍にいるだけで。自覚が足りないと言われようと、常日頃からずっと蒼を『守って』いる 覚えはない。
 傍にいること、それが結果的に蒼を『守る』ことなのだとしても。
 そう、潮と約しているのだとしても。
 煩わしいと、そう思うなら。そんな風に思うなら、自分はここにはいないのだ。
 煩わしいことも、面倒くさいことも、この自分は大嫌いなのだから。
 そうではないから、ここにいるのだ。
 そこまで蒼が気付いていれば良いと思う。それもまた、口に出して言うことではなかったけれど。
「そこが灯の美徳ですね」
「ああ? 気持ち悪いこと言ってんな」
 露骨に顔を歪めた灯に、蒼は小さく吹き出す。
「そういうところが、いいんでしょうね」
「だから、お前なあ……」
 げんなりした様子で頭を押さえる灯に、蒼は足を止めた。灯もあーあと意味のない唸り声を上げると、 その場に座って靴を履き始める。歩く速度を緩めなかった二人は、いつの間にか玄関口にまで到達していた。
「何かあれば必ずご報告ください」
「了解」
 蒼は最後に真面目な口調で、靴紐を結ぶ灯の背に声をかけた。灯もまた、振り向きはしなかったが 簡潔な言葉でそれに応えた。









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