巡ル想ヒ



「だから、祟られるような覚えはないと何度も言っているでしょう」
 公用の建築物が立ち並ぶ一角にそのビルはあった。そのビルの最上階、社長用に設けられた 一室は観葉植物と過度ではない生け花が調和を生み、社長室と言う独特の緊張感の中にも心休まる 空間に作り上げられていた。
 その部屋の中、社長用の椅子に座りながら苛立たしげに彼は言った。
 相馬造園社長、相馬裕彦(そうまひろひこ)。若くしてこの造園を立ち上げ、気流に乗せた彼は未だ40代前半であり、 他の社長とは違い、その容姿にも若々しさがあった。
 今はその若々しい顔にも、苦渋が満ちているのだけれど。
「身近で亡くなった方はいらっしゃいませんか、と尋ねただけなんですけれどもね」
 応接用の椅子に座りながら、ポールスミスの上等なスーツに身を包んだ男は苦笑交じりに呟いた。その 爽やかであり涼しげな容姿には一片の曇りもない。
 氷城潮、だ。
「私は知らない。それに、それが誰かわかったところでどうにもならないはずだ。 早く、何とかしていただけませんか。それが貴方の役目なんでしょう?」
「どうにもならないかどうかはわかりませんよ。霊自体の望みが果たされれば自ずと成仏する ことも稀にありますからね」
「けれど、私には心当たりなどない!」
 あくまで落ち着いた様子の潮に、相馬社長は声を荒げてしまってから咳払いを一つした。
「とにかく……このまま事件が続くようではうちの信頼問題に大きく影響してくるんです。早く 何とかしてください。謝礼は支払いますから」
「そうですか」
 これ以上話をしても無駄だと察した潮は、出されたお茶を全て飲み干してから立ち上がった。そして 重々しいドアの前まで歩を進めると、ふとその足を止めた。
「最後に一つ、失礼なことを訊いてもよろしいですか?」
 正面に座る社長を見返りながら、潮は口を開く。
「……何でしょう」
 訝しげに眉を寄せた社長に、潮は柔らかな微笑みを浮かべた。その質問の鋭さを、緩和するかの ように。
「奥様との離婚を決められたのはいつですか」
 微笑みとともにもたらされた問いに、社長は険しい表情に変わった。やっぱ駄目か、と潮は 内心舌を出す。そんなことを尋ねられていい気がする訳がないということは潮にも分かりきっていた。
「……そんなこと、貴方には関係ないでしょう」
 怒鳴りつけられなかっただけでもマシとするしかない。感情と共に声音を抑えた社長に、潮は一応の礼儀 として軽く頭を下げる。
「これ以上事が起きないよう、こちらとしても全力で当たらせていただきますよ。では、失礼します」
 人が見惚れる柔らかな笑顔を向けて、潮はそのまま社長室を後にする。廊下やエレベータの中では 関係もない社員に愛想を振りまきつつ、潮は外に出た。
 玄関ホールを出た途端、雲ひとつないとはいかないまでも十分に快晴の空が潮を出迎えた。潮はその光線の強さに 目を細め、ポケットにしまってあったサングラスを装着する。その仕草は自然でありながら、 彼独特の優美さが兼ね備えられていた。
「やれやれ……」
 ビルの前まで歩み出ると、潮は最上階を見上げた。全面ガラス張りのビルは青天に昇る太陽の光を反射し、きらきらと輝いている。
「ここまで来れたのは誰のお陰なのか、わかってるのかねえ……」
 独りごちる言葉に、反応する者はいない。彼とて、誰に話しかけたわけでもなかった。
 なかったのだけれど。
「…………」
 潮はふと、周囲を見渡す。その目は黒いグラスに覆われて、見ることはかなわない。周囲にいるのは、 この近辺で働いているのであろうサラリーマンやOLがほとんどだった。普通に立っているだけで 目立つ潮は今この時も彼らの注目を集めていたが、そんなことにはまるで頓着しなかった。
 ぐるりと見回してから、潮は一点でその動きを止める。
 ビルに沿うように作られた街路樹の片隅で。風向きとは反対に、木の葉が不自然に揺れていた。
 ――真昼間からお盛んなことで。
 潮は心の中で揶揄する。
 まだ、攻めては来ない。様子を窺っているというところか。
 だが確実に、それは潮を狙っていた。
 潮自身も持つ氷城の『業』からか、それ以外の理由からか、もしくはその両方からなのか。 覚えがありすぎて、潮は一人、自嘲的な笑みを浮かべた。
「……タイミングのいい事」
 潮は視点を外さずに、胸ポケットから携帯電話を取り出す。それは無音で規則正しく震えていた。 着信画面を確認しないまま、潮はその電話に出る。
「もしもし?」
『何処ほっつき歩いてんだよ。話あるからとっとと帰ってきて欲しいんだけど』
 その馴染みある、親しさの欠片も見せないぶっきらぼうな声に潮は小さく笑った。
 本当に、タイミングが良い。
「とっとと帰りたいのは山々なんだけれどねえ……」
『はあ?』
「俺様、どうやら狙われてるみたいよ……?」
 そう言って首もとのネクタイを緩め、不敵に笑うと、潮は一方的に電話を切って走り出した。



「狙われてるって……おい!」
 灯は電話口に怒鳴りつけたが、もはや応答はなかった。胡坐をかいたまま忌々しげに電話を切ると、灯は 真正面にいる蒼に向き直る。氷浄寺の縁側で、包帯を巻いた右手は使わずに蒼は涼しい顔をしてお茶を飲んでいた。
「……どうすべき?」
 一応、灯は蒼に投げかけてみる。蒼は眉一本動かさず、湯飲みを持ったままつと視線を灯に向けた。
「潮は私と違って自衛出来ますから、大丈夫だとは思いますが」
「思いますが?」
「わざわざ狙われているということを灯に告げたのは、それ相応の理由があってのことかもしれません」
 兄が襲われているらしいというのに取り乱しもしない蒼に灯はわざとらしく息を吐く。全くもってこの兄弟らしい。この兄弟らしくて泣けてくる。 灯は仕方なく重い腰を上げた。この場合、自分が動く他ないことは灯も承知していた。
「……とはいえ、行き先を聞いていないのでこちらとしてはどうしようもありませんけれど」
「うわー……すっげバカだな、アイツ」
 湯飲みを置きながら付け足した蒼に、灯は心底呆れ返った様子で応える。 だがどこか諦めた様子でジーンズの後ろポケットから一本のキーを取り出した。
「役所付近に行ってみてください。もしかしたらいるかもしれません」
「何っか釈然としねえんだけどな……」
 文句を言い、首を傾げながらも、灯は玄関に向かって走り出す。蒼は言葉をかけるでもなく、 その後姿を見送った。
「気持ちはわからないでもないですけれどね……」
 浅黄色の着流しの袖に手をやりながら、蒼は灯がいた場所に残されていた写真を手に取る。
「気持ちは……ね」



 もう何分走っただろう。だんだんとすれ違う人の数も減ってきた。それは、潮が意図して そういう道を選んでいるからだ。
 除霊をするにも、出来るだけ人目は避けたほうが良い。相手が力を使えば巻き込まれる 可能性もある。向こうが攻撃してくるなら話は別だが、今のところ追いかけてきてはいるものの まだ攻めてくる気配はなかった。白昼での実力行使は相手――つまるところ、霊、である――も不利なのだ。
 霊とは本来、夜にて力を発揮する。天の力の及ばない、闇の時間に。
 無論、光ある処でも彼らの力は無効ではない。霊によっては致命傷になりうるだけの力を昼夜問わず 有している場合はある。たとえそのような強力な霊でなくとも、取りに足りない小攻撃を積み重ねられば 大ダメージになり得る。昼は霊的存在の活動自体は弱まるが、だからといって完全に安全だとは決して言えないのだ。 闇夜に比べれば多少マシ、という程度である。
 そして、今潮が対峙している『霊』は昼間でも天の光が及ばない、暗がりにまで潮が逃げるのを待っているようだった。 ――闇雲に手を出すのではなく、白昼の中でも確実に仕留めるために。
 逃げ切れるとは潮も思っていない。相手はこうして走る人間を追いかけたところで体力を消耗することなどないのだから。
 ただ、時間を有効に活用しているだけだ。
 人のいない、なおかつ光の途切れない場所を求めて潮は走る。
 その間に、彼が着くのを待てばいい。
「あ」
 潮は役所の周囲を囲む緑地公園に走りこみながら間の抜けた声を上げた。
「ばーしょ、教えなかったっけ、そういえば……」
 緊張感の欠片も見せずに潮は言った。だが携帯を再び取り出すのも煩わしいし、たとえ場所がわからないとしても これだけ時間が経った今、まだ動き出していないならば灯は死刑ものだ。当然もう動き出しているものとすると、 今更電話をしたところで彼は応答できない。
「せっかく頑張ったのになあ……。君には俺の力、使いたくないから」
 潮は人気がないことを確認すると、くるりと体を反転させた。
 濁りきった、小さな人工池の上に作られた憩いの場。日除け屋根がつくその場は多少、薄暗い。 その周囲には人影も気配も感じられなかった。昼間にすら誰も来ない公園など、税金の無駄遣いも いい所だと緊迫した状況にそぐわない感想を潮は抱く。
 足を止めた潮は息も切らさずに平然としていた。サングラスを外しそれを上着のポケット入れて瞳を 晒すと、街路樹からわざわざ追ってきたその霊だけを見つめる。
 若い、女の霊。
 池の上に浮かびあがる様は、一目でもはや人間ではないことを知らしめる。
 茫洋と輝く体。生気のない色。光をまといながら、それでいてモノクロでしかないような、存在感の 薄さ。
 その顔を見とめて、生きてる女なら是非ともお相手願いたかったんだけど、と潮は一人思い、嘲笑(わら)った。
 生きていない女だからこそ、今ここに、自分を追って来たのだ。
「出来ることならそのまま退散してくれないかな? 君のことを考えると心は痛むけれど、 俺はやっぱり自分の身が一番可愛いんでね」
 命乞いとは思えぬ切迫感のなさで、潮は投げかける。
 それに返答するかのごとく、天の下で朧げに光る青く白い刃が潮の体を掠めた。ついに手を出すことに 決めたらしい。咄嗟に身を翻した潮だったが、上着の裾に切れ目が走った。
「あーあ、割と気に入ってたのに」
 切り裂かれたスーツに目をやり、潮は少々眉をしかめる。そんな彼を待つことなく、第二陣、第三陣 と刃が潮を襲った。その攻撃の全てを、潮は狭い足場でやり過ごす。
「聞く耳持たず……ね。じゃあ、こちらも実力行使といきますか」
 第四陣を軽い跳躍で交わしながら、潮は返答が来ることもない相手に向かってそう言った。地に足を 着けると同時に、潮は自分の両掌を胸の前で合わせる。そして、口元に笑みを残したままその瞼を閉じた。
 視界を閉ざした潮に、不定形の刃が真正面から迫る。これまでの攻撃の中で最も強い力がそれには こめられていた。
 もう逃げることも適わない体にすれるか否かの至近距離に達した時――潮はその双眸を見開いた。
「破っ!」
 短い掛け声と重なって、空気の密度が、変わった。彼自身の内なる力が凝縮し、圧縮されて合わせられた 掌から発散する。それは直射日光の当たらない茅葺屋根の下で銀の光沢をまとい、青く白く研ぎ澄まされた 力を包みこんだ。
 やがて銀は朧な光を侵食し、ねじ伏せると、役目を終えて霧散した。
「俺は昨日の子とは違うからね。この程度の力比べなら、負けはしないよ。このまま、君を消す事だって出来る」
 戸惑いを見せるようにそれまでの連続攻撃を止めた相手に、潮は池の上に浮かぶ影に向かってすっと指を伸ばす。 その唇は緩やかなカーブを浮かべていた。けれど、その瞳は獲物を狙う狩人ごとくぎらぎらと輝いていた。
「俺としては、君のお父さんやお母さんのためにも、これ以上力を使いたくはないんだけど?」
『………………』
 霊は、何も答えない。だが、反駁するかのごとく、止めていた力を潮に振りかざした。
 青と銀がぶつかり、また、太陽の光の中で消えていく。
 俺の言葉は届かないよね。
 潮は内心、そう思って、笑う。
 『言葉』を届かせるのは彼の専売特許であって、その真似事をしたところで通じはしない。
 ましてや氷城の血は、その力は、この世に留まる霊に忌み嫌われる存在。
 そんなことは、わかっているけれど。
「それじゃあ、茶番はもう終わりにしようか……?」
 ふ、と潮の目が細められる。これまでと変わらぬ軽い口調、だがしかしそれは剣呑な空気を帯びていた。
 『言葉』は通じなくとも。
 彼らの全てを終える力を、この身は内包している。
 全てを終える、全てを閉ざす、全てを消滅させる――彼らにとって忌むべき力。
 潮はそれきり黙ってその場に立ち尽くした。瞳は閉じず、標的(えもの)を捉えて離さない。笑いを浮かべる様は 傲慢で、全てを見下すように彼は霊を凝視する。
 彼の体が揺らめいた。
 否、彼の体を覆う銀色の力が揺らめき、彼を取り囲み、やがて一つの強大なしるしとなる。
 氷城の血を得た者だけが具現する、超然的なしるし。
 彼は迷いも躊躇いもなく、それを放たんと手を差し伸べた。
「――潮!」
 その声がもう一瞬でも遅ければ。
 銀光は辺りを包み、霊を、彼女の魂を奪い去っていただろう。
 永久に。目覚めることのない世界へと。
「遅いよ、灯っち」
 伸ばした手を下ろす潮は既に通常の姿を取り戻し、待ちわびた来訪者に胡散臭げな笑顔を向けた。
 その感覚の内に、彼の到来とともに対峙した存在が姿を消したことを捉えながら。
 








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