巡ル想ヒ





 ああ私が消えてしまう。
 私の全てが。
 何もかもが消えてしまう。
 悲シイ。苦シイ。辛イ。
 ――寂シイ……。
 せめて、せめて、名を。
 咲かず実らずして地に還った花の名を。
 誰か、誰か、誰か――……。



「おいでなすったかな」
 昨日と同じ公園で、灯は自分達が乗ってきたバイクに身を預けながらポツリと呟いた。
 花壇は一日で綺麗に片付けられていた。そこは既に更地で、切り裂かれた花々の痛々しい姿は もうない。いずれまたここには以前と同じように花が咲き誇るのだろう。
 『彼女』がそれを潰すことはもうない。もう、そんなことをさせる必要はない。
「……そのようですね」
 真顔をした蒼が唇に指を触れさせながら、灯と同じ一点を見上げた。
 空から舞い降りる影。
 『彼女』は昨日と同じくして、ジャングルジムの頂へと降り立った。
「……ちょっと離れてろ」
 灯がそう指示すると、蒼は頷いて一、二歩後ずさる。その蒼に、昨日の灯の言いつけを守ってか、 『彼女』が力を振り下ろすことはなかった。
 青白い光。ヒトが放つことのない光。
 遠きに瞬く星よりも明るく、だが原型の見えぬ光の渦。
 闇の中でそれに包まれ、今、『彼女』がどんな想いを抱いているのか。
 今の灯には、それが、わかっていた。
 『彼女』が何を求めているのか。
 灯には、わかっていた。
 ――それは、花の名前ではなかったけれど。
「降りて来い」
 灯はそう命じると足元に置いてあったコンビニの袋から缶のオレンジジュースを一本取り出し、プルタブを開けた。 そしてそれをジャングルジムの前に置く。自分はコーラの缶を取り出すと、一口それを口に含む。
「今日は、同窓会だ。たった二人でワリぃな。もう一人連れてくるつもりだったんだけど、融通利かないバカでさ」
 自嘲気味に言うと、灯はさらにコーラを飲む。それはまるで友に話しかけるような口調だった。
「でも、ま、二人でも同窓会っちゃ同窓会だろ?」
 飲み終えた缶を蒼の方に放ると、灯は口元を拭って全く動こうとしない『彼女』を真っ直ぐに見上げた。
 そこにいるのが誰か、今はもう、知っている。
 その名を。
 呼んでやれる。
「ソウマ、ミサキ」
 静かに、だがはっきりと、灯はその名を継げた。
「お前は、思い出して欲しかったんだろ? 自分のコトを」
『………………』
 『彼女』は、ミサキは、黙っていた。だが言葉よりも先に、彼女を取り囲む光が大きく揺れた。一瞬 冷たい炎が燃え盛るように青い光が辺り一体に広がると、徐々にそれは中心へ向かって凝縮し、変化して、一層色濃く 彼女の姿を縁取った。
「それがお前の、本当の姿か」
 灯は少しやるせないような、弱い口調でそう呟いた。
 血気のない肌の色。その姿を通して夜の闇が透けて見える。だがミサキは確かにそこにいた。
 人を恨む顔でなく、人を憎む顔でなく、人が恋しいと、孤独(ひとり)では寂しいと告げながら、 そこに立っていた。たった一人の少女が、青い涙を流し、そこに立っていた。
 それは、彼女が自身の時を止めた折の姿。
 まやかしで成長した姿ではなく、命を失った頃の、13歳の少女の姿だ。
「……いいから降りて来いよ。俺、お前のコト名前しか知らねーし。言いたいことあんなら聞いてやっからさ」
 灯はビニール袋を取り上げてバイクのシートの上に座り込むと、中から駄菓子のスルメを取り出して 封を切った。それを噛みながら、自然な振る舞いで灯は話しかける。灯はまだ封の切られてない同じ種類の駄菓子を 掴むと、ジュースの横に放り投げた。
 それは、意識してやっていることではなかった。
 霊を供養する意味で物を投げているのではない。二人きりの同窓会、その仲間に自分と同じ物を 与えているに過ぎないのだ。
 今の彼にとって、霊も、生身の人間も、変わりなかった。
 自然体で、現にありてはならぬ者と接する。
 何の意識も働かないからこそ、彼は、彼の言葉は、胸に響く。
 この世にいてはならぬ者、彼らが現から唯一変わらぬ持ち続けている『心』に。
 想い、に。
『どうして……』
 今まで問いかけしかしてこなかった彼女は、初めてそれ以外に言葉を伝えた。
 凛と頭の中に響く声だった。冷ややかな声音。それは第六感が伝え聞くもの。
 普通の人間には届かぬ声。
 熱を帯びないその声に、温かさを感じたのは灯の気のせいだっただろうか。
 否、そうではない。
 彼らは熱を持たぬもの。
 しかし、決して情を持たぬものではない。
 彼らは深すぎる感情を持つが故、現世に留まっているのだから。
 灯がその声に感じた温度は、彼女の心だった。彼女の、暖かい心だった。
 彼女、本来の。
「何が、どうして?」
 相変わらずスルメを噛みしめながら、上目でミサキを見て灯は問い返す。バイクの上に乗り、足を ぶらぶらさせている様からはまるで警戒心が感じられなかった。
『誰も……わからなかった。誰も、私のこと、わからなかった』
 ミサキは、訴える。それは悲痛な叫びだ。
 皆からは見えず、皆からは聞こえず、たった独りで尽くしてきた彼女の。
『皆、忘れていったのに……』
「だから、思い出して欲しかったんだろ?」
 ポンと、何でもないことのように灯は言った。ジャングルジムの上に立つ、初めて見る少女に 向けて。
「その為に花壇、荒らして、その為に、同窓会にも来たんだよな?」
『………………』
 灯の問いに、ミサキは答えなかった。彼女が纏う光が闇夜に悲しく揺れる。灯はその光を見て目を細めた。
「同窓会はともかく、だ。あんま親父さん困らせるのはどうかと思うぜ」
 灯は窘めた後に、ま、自分でわかってるか、と軽く付け足した。
『パパとママは……私が病気になってから、仲が悪くなったの。 ……パパの会社が上手くいけば仲直りしてくれるんじゃないかって……だけど』
 けれど、そうはならなかった。
 娘の死をきっかけに夫婦の仲は冷め、崩壊した。
 父は仕事に没頭し家庭を顧みなくなり、そんな父に母も何も期待することはなくなった。
 仕事が上手くいけばいくほど、溝が深くなる――それはなんとも皮肉な過程だった。
 それを、すぐ傍で娘が見つめているとは知らずに。
 彼らは、当然の如く、別離を選んだ。
 別々の道を歩むことを、決めたのだ。
『パパとママは私のこと何も言わないの。何も話さないの』
 感情が昂り、震える声。それでもそこにただならぬ冷気を秘めて届くのはミサキがもう人ではない証。
 情があれども熱は持てぬ者の印。
『忘れちゃったんだよ……私のことを』
 ぽつりと、ミサキは漏らす。
『もう……皆に忘れられたと思ったの……』
 実の両親の話題に上ることもなくなり。
 傍らにいる自分の存在に気付いてくれる訳もなく。
 彼らの為に現世に居続けた少女。ずっと傍に居た愛する者の心から自分が消え去っていくのを13歳の少女は どんな風に見つめていたのだろう。
 灯は眉をひそめて、形のない涙を零し続ける少女の顔を見つめた。
『すごく、すごく、悲しかった……怖かった……!』
 ミサキは小さな体を丸め、自分を抱きしめるようにその肩を抱いた。その強い想いに呼応するように、 青白い炎が闇を焼く。
『誰でもいいから、誰でもいいから……私を思い出して、欲しかった――……!』
 ミサキの体から、閃光が走る。それは彼女自身制御出来ぬものだった。闇一面に飛散し、灯の手にも 触れる。
 だが、それは人を傷つけるものではなかった。
 少女の深い悲しみを、それは届けた。
 言葉では言い表せない強い、強い想いが詰まった青の色に触れたその拳を灯は握った。
「それは違うだろ?」
 真面目腐った声色で、灯は否定する。
「クラスメイトなんざ適当に集められた同い年の集団にしか過ぎないけどな。親は絶対お前のこと 忘れてないと思うぜ。……忘れらんないから、何も、言えないんだ」
『………………』
「それに……同い年の集団にしか過ぎないクラスメイトだって、お前のこと覚えてるヤツはいる。なのに、 実の親が忘れるなんておかしいだろう?」
 灯は佐治の顔を思い出した。アイツの几帳面なまでの記憶力がなければ、きっと今でも ソウマミサキという存在を灯は知ることはなかっただろう。
 そう、佐治は覚えていたのだ。たとえ、その名だけでも。その存在だけでも。
 たかだかクラスが一緒だっただけでも、忘れていないヤツは確かにいる。
 ――ならば、どうして親が我が子を忘れ去ることが出来る?
 そんなことは、あり得ない。
 あり得ないのだ。
 遠くの過去ではなく、振り返るとすぐに、かけがえのないものを失ったという強すぎる痛みがあるから。
 だからこそ、思い返すことも出来ず、口にすることも出来ず、彼らは娘を救いきれなかった自分達を悔やみ続けているのだろう。
 だからこそ、今までどおりには暮らしていけなかったのだと――大切なものを失った上で、何もなかったかのように 振舞うことは出来なかったのだろうと、灯は思った。そう、信じたかった。
 たった一人で、彼らの為に留まることを決めたミサキの為に。
 ミサキが、新しい道を選び出す為に。
『……本当?』
 恐る恐る、ミサキは尋ねた。信じたい想いと信じられない現実の間で揺れ動き、怯える姿に、灯は力強く頷く。
「ああ。二人は別れて、別々の道進んでも、お前のことは絶対に忘れない」
 無鉄砲とも呼べるほどに強気で灯は訴える。
 だからこそ。彼の言葉は光となる。
 闇の中に集う者をも殺さず、暖かく包み込む彼だけの光となる。
 灯はバイクから降り、ジャングルジムへと近づくと天へ向かって、そこに立ちすくむ少女に向かって 両手を差し伸べた。
 もう怖がらなくても良い。
 独りで悲しみに暮れることはないのだと、伝えるように。
「だからお前はもう自分の存在を知らしめなくても良い。……もう、二人を仲直りさせようと思わなくても、 良いんだ。二人が自分の道を進むように、お前も自分の道を進めば良いんだよ」
 強い語調だった。優しさをかけるのではなく、それこそが真実なのだと、強い意志を持って 灯はミサキに伝えた。
「ここに来い。お前の道を、拓いてくれる」
『私の、道……?』
 両手を広げたままの自分を待ち受ける灯を見下ろしながら、ミサキは独りごちた。逡巡し、踏み出せずにいるミサキに、 愛想の欠片もない、ぶっきらぼうな言葉を灯は投げかける。
「俺の言葉信じるのかどうかは、お前が決めろ」
『………………』
 無骨だが、その飾り気のない言葉こそが。
「お前が、選ぶんだ」
 逃げのない、逃げを許さない、真正面の対峙こそが。
 灯の、最大の強さなのだ。
『その道は……怖くない?』
 ミサキは涙を拭い、真っ直ぐに灯を見返した。慄いているような台詞とは裏腹に、 灯の強い眼差しに負けぬ程の覚悟をその瞳に秘めていた。
「ああ。怖くねえよ」
 灯はその時初めて、ミサキに笑いかけた。
 蒼の微笑とも、潮の微笑とも違う。
 決して瞳の強さを失わない、見る者を勇気付ける笑み。
 ――それが、契機となる。
 青白き光は球体となり、ふわりと宙を舞う。
『ありがとう……』
 灯はその光を眺めながら、確かにその言葉を聴いた。
 姿なき者から贈られた言葉を聴いた。
『ありがとう、ヒダカ君……』
 それはソウマミサキが最期に遺した想い。
 少女の形を失った、ソウマミサキの霊魂は、もはや惑うことなく灯の胸へと飛び込んだ。



 灯のやるべきことは、ここまでだった。









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