春の風は柔らかい。開け放した窓からふわりと綿[わた]のようにすべり込む。 それに混じる、晴れた春の匂い。
「お嬢様、また窓を開けられて。空気の入れ換えはそりゃあ大事ですけど、 まだ外は肌寒いんですから、あんまり冷たい風に当たられてると、また熱を出されますよ」
 三ア[みさき]さんは部屋に入ってくるなり、 そう言って窓をかたりと閉めた。日の光だけが硝子[がらす]を通して入ってくる。 わたしはひざの本をぱたりと閉めた。
「だいぶん暖かくなったから大丈夫よ。それに…」
 はらはら舞う、花の嵐[あらし]。
「桜坂の桜が、咲いていたの」
 窓を見つめてわたしはそう言った。
「桜坂ですか? ええ、今頃は満開でしょうねぇ。お加減がよろしければ、 法野[ほうの]先生に外に出ても良いかお訊[き]きしてきましょうか?」
 後ろでまとめられた髪に白髪の混じり出した三アさんは、薄く笑んでそう言った。 それは思いがけない言葉で、わたしは一瞬動きを止めた。
「本当に?」
 訊[たず]ねるわたしに、ええと頷[うなず]く。
「先生に桜のことをお話しすれば、きっと許して下さいますよ」
 桜坂の桜なら、そりゃ綺麗[きれい]でしょうから。
 三アさんは言いながら、湯呑[ゆの]みに白湯[さゆ]を注[つ]いだ。
「…ならいいな」
 それだけ言って、わたしは笑んだ。
 法野先生は、きっと許して下さらないだろうけれど。
 だって多分、あの冷たい眼鏡[めがね]を光らせて言うのだ。
『いつ容態が変化するかわかりませんから』と。
「ですから、お薬はきちんと飲んで下さいね」
 盆[ぼん]に置かれた湯呑みと薬。
 わたしは三アさんの薄い笑顔を横目に見ながら、薬に手を伸ばした。


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