飛天[ひてん]の暮らすこの地「エンシリアム」は、実は大きな島である。それも、 空中を浮遊する浮島である。エンシリアムの下には広大な大地が広がっている。 そして大地には人や動物、精霊や魔族までもが暮らすのだという。
 だが、いくつかの浮島を行き来したり、 エンシリアムから大地を見下ろしたりする事は一般的にできるものの、 大地とエンシリアムを自由に行き来できる者は、ごく限られていた。だから、大多数の飛天にとって、 大地は未知なる世界であった。
 飛天とは、背に透明に近い翼を持つ者たちのことをいう。その翼で、 ある程度までなら自由に空を飛ぶことができる。大地に住む、 「人」という翼を持たぬ民とも似ているが、その「人」とは別の種族である。そして飛天は、 神にも魔にも属さない特殊な存在であった。


「影糸[えいし]ーっっ」
 呼ばれて影糸は籠[かご]を抱えたまま振り返った。結わえていない長い黒髪が、 それに合わせてさらりと揺れる。とびきり美人ではないが、 どちらかと言えば美人の類[たぐい]に入る、というくらいの顔立ち。 もうすぐ子供の衣[ころも]を脱ぐか、というくらいの年齢。今まとっている服は、 ゆったりとした絹にも似た上等の布が使われている。
「どうしたの? 白綺[しらぎ]」
 空から急いで舞い降りる親友に、影糸は何事かと視線を注いだ。
「今さっき、邑[ゆう]様が戻られてっ……」
「邑様が?」
 息を切らして言う白綺に、影糸は訝[いぶか]しげに問うた。
 影糸の養い親である薬師[くすし]の邑は、 蒜僞草[さんがそう]という薬草を摘みに渮南[かなん]の森へと行っているはずである。 渮南の森へは片道に一ヶ月半はかかるため、一ヶ月ほど前に村を出た邑が帰ってくるのは、 あと二ヶ月後のはずであった。
「茅羽[かやわ]の村にっ、流行[はや]り病[やまい]がっ…」
 だが白綺がそう言うやいなや、影糸は自らの翼を宙に広げた。
「邑様は今どこに?」
「ケンマキソウが足りないからって、由螺[ゆら]の谷に」
「剣巻草[けんまきそう]?」
 その名に影糸はひっかかりを覚えた。
 剣巻草は、解熱作用のある薬草の一種である。効果は強いがその分、副作用も激しい。
「そう。影糸には、倉庫からこれを取り出しておくようにって邑様が」
 手渡された紙を見て、影糸は慄然[りつぜん]となった。
 そのどれもが解熱作用を持つものばかりであったのだ。だが、その中には、 一般的に熱冷ましとして使われる薬草は混ざっていない。
 考えられることはただひとつ。
(効かなかったのね)
 解熱ができないとなると、やっかいだ。
「白綺、これお願い。薬草が干してある部屋の入り口に置いといて。あたしは倉庫に行くから」
 白綺に籠を預けると、影糸は薬草の保管してある倉庫へと飛び立った。






 朝の光に溶けてしまう『ほしのかけら』が降り積もる頃、影糸は扉の開く音にはっと目を覚ました。 どうやら自分でも気がつかないうちに、うつらうつらとしていたらしい。ギィという音と共に、 疲れた表情の養い親が入ってくる。いつもはちゃんと剃[そ]っている顔も、 ここ数日のうちに不精髭[ぶしょうひげ]が生えていた。
「邑様」
 影糸が恐々[こわごわ]声をかけると、力強いはずの薬師は俯[うつむ]き、ただ首を横に振った。
「瀬莟[せがん]の根でも駄目[だめ]だ。下がる気配も見せやしねぇ」
 ため息と共に吐くと、椅子[いす]にどかりと腰[こし]を下ろす。
 茅羽の村で起こった流行り病は、影糸の暮らす集落にまで伝わってきていた。病に侵され、 亡くなった者も数多い。
 熱が、下がらないのだ。
 病にかかった者は、まず数日の間、微熱を持つ。微熱が治まったかと思う頃に、 今度はうなされる程の高熱が来る。そして、そのまま体温が下がることなく死を迎えるのだ。
 どんな解熱効果を持つ薬を与えても、全く効き目がない。
「邑様、夜嵐柘[やらんじゃ]は?」
 影糸が言うと、邑は難しげな顔をした。
 夜嵐柘は万能薬として有名な薬草である。しかし珍しい薬草であるため、 そう簡単に手に入るものではない。
「夜嵐柘、か。試してねぇな、そういや。けどどっちにしろ、俺の手元にゃねぇはずた。……夜嵐柘、 なぁ」
 邑はしばらく考え込んでいたが、とうとつに顔を上げた。
「待てよ。今の時期だったら、 ひょっとすりゃ藜峰山[らいほうざん]の裏側辺りに生えてるかも……」
「藜峰山に?」
 藜峰山は、由螺の谷を抜けた先にそびえ立つ。半日かければ、影糸でも行くことができる。だが、 そんな所に夜嵐柘が生えているとは初耳であった。
 驚く影糸に、『薬草は自分の足で探して採るもの』を信念に持つ薬師は、何気なく言う。
「ああ。足場の悪い崖[がけ]の下で、羽も使えねぇような所だがな」
「羽が、使えない?」
 納得のいかない顔をする影糸に、邑はそうだと頷[うなず]いた。
「地面が裂けたみたいな崖[がけ]に生えててな、翼を広げる余裕がねぇんだ」
「じゃあ、邑様はどうやって夜嵐柘を採[と]ったの?」
 そんなもん、と邑は疲れた顔で不敵に笑んだ。
「命綱を腰に巻きつけて、崖を下りてったに決まってんだろ?」
「縷紅[るこう]の邑は居[お]られるか!?」
 いきなり外から声がかけられ、激しく扉を叩[たた]かれた。
「何だ!?」
 邑が扉を開けると、そこに立っていたのは水茎[みずくき]の癸陏[きた]こと、 白綺の父親であった。癸陏は扉が開くやいなや、邑にすがりついた。
「薬師どの。頼む、助けてくれ。娘が、白綺が…」
「おじさん、白綺がどうしたの?」
 ただならぬ様子に影糸が問うと、癸陏は消え入るような声で言った。
「白綺が、流行り病にかかったらしい」






 影糸は邑にもらった地図を見ながら、黙々[もくもく]と山の中を歩いていた。 頭上には高い木々が繁[しげ]っているため、きつい日射[ひざ]しも気にしなくてすんでいる。 だがそれは同時に、とっさの時に木々が邪魔をして飛び立つことができないということも意味していた。
「あたし、藜峰山に行ってくる」
 癸陏が訪れた翌日、影糸はひとこと、養い親にそう告げた。
「影糸」
 名を呼ぶ邑の目の下には、大きな隈[くま]ができていた。あれから白綺の元に出かけた邑は、 一睡[いっすい]もしていないのだろう。
「邑様は、山登りができる状態じゃないでしょう? 顔を見ればわかるって。だから…」
 影糸は、邑の瞳を見て言った。
「あたしが、夜嵐柘を探してくるわ」
 何もせずにいることなど、できはしなかった。
 正式な薬師になれていない、自分がはがゆかった。
 だから……
(せめて自分にできることがしたかったのよ)
 夜嵐柘を、探そうと思ったのだ。
 白綺が助かるかもしれない可能性があるのならば。
 邑は落ちんなよ、とだけ言って、夜嵐柘の生えていた場所の地図を書いてくれた。
 ふいにザッと光が射した。頭上の木々がなくなったのだ。
「あ。」
 そこには、谷とも呼べないような、地面の裂け目があった。
 向こう岸までは三メートルあるかないかといったところ。羽を広げなくとも、 勢いをつければ飛び越すことができそうである。
 だが影糸は翼を広げると、ふわりと宙へと飛び立った。垂直に数メートル上がると、 地図とその裂け目の場所を見比べる。
「ここ、ね」
 周りの地形も、邑の地図と一致する。
 影糸は裂け目のそばに降り立つと、その内側を見下ろした。
 裂け目は思ったより深く、両側とも急な崖になっている。崖の間がせまいため、 邑の言っていた通り、羽を使って下りるという事は到底[とうてい]できそうにない。崖の所々には、 緑の草が生えているようだった。
(え?)
 こちら側の崖に生えている草の中に特徴的な葉を見つけ、影糸はびくりとした。確かめるように、 裂け目をのぞき込む。
 あの特徴的な葉の形は……
(本当に、生えてたんだ)
 邑がどうしてこんな所の薬草を発見したのかは謎だが、 見つけたからには次に取るべき行動はひとつである。
 影糸は腹を据[す]えた。
 近くに生えていた長い蔦[つた]を束ねて縄[なわ]の代わりにすると、 その片方の端を自分の体に結わえつけ、もう片方を近くの大木の幹[みき]に縛[しば]りつける。 簡単にはほどけない事を確認してから、影糸は裂け目へと向かった。
 幸い足場がかなりあったので、足をすべらせないように気をつけながら、ゆっくりと崖を下る。 飛ぶことができないので、落ちてはただですみそうもない。
 何度か足場が崩[くず]れたりもしたが、時間をかけて崖を下り、 やっと手を伸ばせば草に届きそうな所までたどり着いた。だが、ここであせってはいけない。 摘みたい衝動をぐっと我慢して、両足がつけられる足場まで下りる。 それから慎重に草を掘り起こした。
 この葉の形、茎[くき]の匂い。間違いない。
(夜嵐柘だわ)
 確かにそれは万能薬と呼ばれる薬草、夜嵐柘であった。
 目当ての物が手に入れば、こんな所に長居は無用である。影糸は夜嵐柘を握[にぎ]り、 上を目指そうとした。だが、その時……
「!?」
 足場が突然、ガラリと崩れた。
 バランスを失って、裂け目の底へと急降下する。だが、夜嵐柘だけは放すまいと、 影糸は薬草を両手でしっかりとつかんだ。と…
 ガクンという衝撃が来て、影糸の体は崖の途中で止まった。
(何?)
 見ると、腰に巻いた蔦がピィンと張っている。命綱のおかげで助かったのだ。
 影糸は大きく息を吐[つ]いた。
(そういえば邑様、足場が悪いって言ってたっけ…)
 夜嵐柘を手にして、注意力がなくなっていたのだろう。
(今度は気をつけないと)
 影糸は片手を命綱にかけた。
 縄に体を預け、崖をそっと登っていく。
 それが、ちょうど半分くらいまで来た時……
 ぶちっ。
(え?)
 大きな音がしたかと思うと、影糸は命綱ごとまっさかさまに、崖の下へと落ちていった。



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