「クレンツ―――――――っっ、こっち、こっちに女の子が倒れてるのよっっ」
「ちょっとまてクーリィ、俺は荷物抱えてんだぞ?」
 騒[さわ]がしい声に、影糸[えいし]はうっすら目を開けた。何だか体がちくちくする。
「あ、気がついたみたい。ねえ、大丈夫?」
 視線の先では、胡桃[くるみ]色のほわほわな物体が声を出していた。かわいらしい女の子の声だ。
(何…?)
 その向こう側、背の高い草の間からはがさがさと音を立て、少年が顔をのぞかせた。焦茶色の髪に、 茶色の瞳。顔立ちはまだ幼い。
「クーリィ、お前ちっこいんだから先々行くな。見失うだろ?」
 少年が憮然[ぶぜん]と言うと、ほわほわは拗[す]ねたような声を出した。
「悪かったわね。わたしだって、好きでこんな体になったわけじゃないもん」
 よく見るとほわほわした毛の中に、くりくりの瞳と小さな鼻と口がある。ほわほわは、 何かの小動物らしい。
 影糸はひとりと一匹とのやりとりを見ながら、体を起こした。 どうやら自分は草の上に横たわっていたらしい。けれど、どうして……
「あの、ここは?」
 おそるおそる問いかける影糸に、ひとりと一匹は顔を見合わせた。
「ここは、サンヘイゼの近くの草原よ。あなた、一体どうしたの?」
「サンヘイゼ?」
 聞き覚えのない地名に首を傾[かし]げる。
(あたし、どうしたんだっけ?)
 確か、邑[ゆう]に地図をもらって藜峰山[らいほうざん]に…
「そうよ!! 夜嵐柘[やらんじゃ]」
 はっとして見ると、手の中には夜嵐柘が一株[ひとかぶ]、握[にぎ]られていた。
 ほっと、安堵[あんど]のため息を吐く。
「ヤランジャ?」
 少年が訝[いぶか]しげに言った。
「ええ。あたしはこれを邑様に届けなきゃいけないの」
 そう答えてから、影糸は辺りを見回した。背の高い草が生えわたっている。
「あの、ここってエンシリアムのどの辺りなの? どこの島なの? あたしは、 洌依[れつえ]の島の玉那[ぎょくな]の村の者なんだけど」
 影糸の暮らす集落の近くでは、こんな景色は見たことがない。
「エンシリアムぅ? ちょっと、あなた大丈夫?」
 影糸の言葉に、ほわほわが声を上げた。
「ここはね、地上なの。わかる? エンシリアムなんて、 飛天[ひてん]でもなきゃ行けるわけないじゃない」
(え?)
 今、何と言った?
「何かで頭でも打ったの?」
 くりくりの瞳が見上げてくる。
「ちょっと、待って。『飛天でもなきゃ』ってどういう意味?」
「どうって…」
 ほわほわは面食らったように言い、少年を見上げた。
「あなた…っ、あなたは、飛天でしょう?」
「へっ?」
 影糸の問いに、少年はすっとぼけた声を出した。
「『へっ?』じゃなくて」
 言う影糸の頭の中に、ある可能性が浮かんだ。
(まさか)
「飛天じゃ、ない、の?」
 そんな事あるはずないと思いながら、影糸は震える声で少年に問うた。
「やっぱりあなた、どこか頭打ったんじゃないの? クレンツが飛天だなんて、 そんな事あるわけないじゃない」
 影糸と少年の間でほわほわが声を上げる。
「え…?」
 少年は影糸を見て言った。
「何だかわかんねぇけど、俺は人間だよ」
「にん…げ、ん?」
『大地には、「人」という翼を持たぬ民が住んでいる』
 昔に聞いた話が、頭に浮かんだ。
(まさか)
 そんな事、あるわけない。
 けれど、先程あの小動物は、何と言った?
「ここは、どこ?」
 声が、震える。
「ここは、女神アユミラたちが、その昔に暮らしていたという大地よ」
「だい、ち……?」
 エンシリアムから見下ろした。
(下の、世界…)
「うそ……」
 自分は、下の世界にいるというのか。
「嘘じゃないわ。ねえ、あなた、やっぱりお医者様に診[み]てもらった方が…」
「あたしはっ」
 ばさり、と羽を広げる。
 飛天特有の、透明に近い翼を。
「あたしは、飛天だもの。浮島[エンシリアム]の飛天だもの」
 影糸の翼に、地上の民は息を呑[の]んだ。
「ひ…てん? 本物の…?」
 その反応に、影糸はかえって冷静になった。
「本当にここは、エンシリアムじゃないの?」
「あ、ああ」
 少年が、まだ呆然[ぼうぜん]としながらも頷[うなず]く。
『縷紅[るこう]の影糸。お前は、下の世界に降り立つよ』
 ふいに、その言葉がよみがえった。あれは確か、昔に受けた予言。
(大ばば様…)
 あの予言は正しかったのだ。
 全身の、力が抜ける。
「ねえ、あなた本物の飛天、なの?」
「……ええ」
 影糸はこくりと頷いた。
「じゃあ、どうしてこんな所で倒れてたの?」
 そうだ。どうして自分はこんな所にいるのだろう。
(どうして……)
 影糸は記憶を手繰[たぐ]った。
(夜嵐柘を採[と]って、足場が崩[くず]れて、命綱が……)
 はっとして見ると、先の切れた蔦[つた]が腰[こし]に巻きついていた。
 命綱が切れたのだ。そして自分は落ちて…
 落ちて……?
 しかし、どうしてその先が大地なのだろう。もし、浮島から落ちたのならば、 死んでいてもおかしくないというのに。それどころか、怪我[けが]一つしていない。
 思い当たることはそれぐらいしかなかった。けれど、果たして信じてもらえるだろうか。
 しばらく迷った後、影糸は今までのことを二人に話した。
「本当に、エンシリアムから来たの?」
 ほわほわが、くりくりの瞳で見上げる。
 影糸はこくりと頷いた。
「あたしも、ここが大地だって信じたくないけど」
 俺も、と少年が口をはさんだ。
「あんたが飛天だなんて普通なら信じられないけど、あの羽を見せられるとな」
 信じるしかないよな。
 言って、どこか遠くを見ながら頭をかく。
「じゃあ、早く戻って薬草を届けないと」
 ほわほわは、心配そうに影糸を見上げた。
「あ、でもその前にコレ何とかしなくちゃね」
 蔦を指してそう言うと、ほわほわは瞳を閉じた。
「解放[セルン]」
 ほわほわを取り囲むように、空気が渦[うず]を巻く。
 ほわほわは目を開けると、ぴょこぴょこと飛び跳ねた。その軌跡[きせき]が、淡い光を放つ。
「風刃[フィラム・ハシャ]」
 ほわほわが声を上げると、途端に、影糸の腰に巻きつけていた蔦が切れた。
「…魔法?」
 影糸が驚いて言うとほわほわは、まあね、と得意気に答えた。
「これでも一応、魔導士見習いだから」
「おい、クーリィ」
 突然、少年がひょい、とほわほわをつかみ上げた。
「きゃーっっ。何するのよクレンツっっ。放してよぅっっ!!」
 少年の手の先でジタバタと暴れる。
「こら、暴れるなって。なあ、あんた。エンシリアムに、 青瑠璃蝶[あおるりちょう]っているのか?」
「え?」
 少年の問いに、ほわほわはぴたり、と暴れるのをやめた。
「青瑠璃蝶? 春先に飛んでるあの蝶々のこと?」
「…いるんだな?」
「いるけど、それが何か…」
「よしっ」
 少年はいきなりそう言うと、ほわほわを肩に乗せ、立ち上がった。
「あんた、俺たちと一緒に来ないか? エンシリアムに帰る方法を探すんだろ?」
「え?」
 話の展開がわからない。
「俺たちはちょっとワケありで、青瑠璃蝶を探してるんだ。エンシリアムにいるんなら、 目的地はあんたと同じってコトになる」
 目的地――――つまり、この二人もエンシリアムへの道を探すというのか。
「ねえ、一緒に行こう。あなた、地上のこと、わからないんでしょう? 一緒なら、 少しは案内もできるから。ね?」
 少年の肩の上でほわほわが言う。
 何も知らない大地でひとり……
 確かに、一緒の方がいいのかもしれない。
 影糸はこくりと頷いた。
 それを見て、ほわほわがうれしそうな声を上げた。
「わたしはクーリィ。クーリィ・ウォルムっていうの」
「俺は、クレンツ・ラ・デルセン」
 にぃと笑んで、影糸が立ち上がるために手を差し出す。
 その手を見ながら、影糸はふと思い出した。
『下の世界には、ここにはない薬草も鉱物もあるんだ』
 そう聞かされたのはいつだったか。
『だがな、絶対下の世界へ行ってはいけない。一度、下の世界に降りてしまえば、 ここには帰って来れなくなるからな』
 そう諌[いさ]められた時、自分は何と答えたか。
『影糸は、下の世界なんか行かないよ。だって、影糸はここで邑様とおんなじ薬師になるんだもん』
 無邪気に笑って言ったのだ。
 薬師に――――――――――――――
(邑様、白綺[しらぎ]……)
 握った手の中には、一株の夜嵐柘。
 影糸はまっすぐに顔を上げた。
「あたしは、影糸よ。縷紅の影糸」
 影糸はクレンツの手を取った。
 親友を助けるために。
 自分自身のために。
 浮島[エンシリアム]へ、帰るために。







―――――――――――――――――――そして、物語は幕を開ける。



The End.



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