後になってよくよく思い返してみると、
その信号[シグナル]はずっと前から受け取っていたような気がする。
鵯[ヒヨドリ]の賑[にぎ]やかな声が聞こえる。
窓の外には強く青い空と、初夏を思わせる陽気[ようき]。
射し込む日の光は縁側[えんがわ]を芯[しん]から温める。
この、山間[やまあい]の里で暮らし始めてもう半年が経つ。
焦茶[こげちゃ]色の柱に掛けられたカレンダーをめくり、私はふとそれに気がついた。
あの日―――何かに導かれるようにふらりと家を出てから、月日はするりと流れていた。
家を出たのが秋のはじめ。重く、深い冬を過ごして芽吹く春を迎え、
田の水も今はすっかり温[ぬる]んでいる。
「もう少しすれば、お社[やしろ]のお祭ね」
(あ。)
口に出してから気づく。
また『わたし』に同調[どうちょう]していたのだと。
時折[ときおり]訪[おとず]れていたそれは、ここに来てから激しくなったようにも思う。
私のものではない知識。
ふとした瞬間、それがするりと現れる。今のもそう。ここで春を迎えるのは初めてだというのに、
祭の情景がありありと目に浮かぶのだ。
それは、今の私ではなく、過去に暮らした『わたし』の記憶。
ここに来てから何度この感覚に襲[おそ]われただろう。時代[とき]の違うそれが、
いくつか重なって視[み]えることさえある。
けれどそれは、不快な感覚ではないのだ。
今の自分が経験したものであるかのように、ごく自然に現れる。
『わたし』も私の中に在[あ]るのだと。いや、『わたし』の方が強いのかもしれない、
とも思う。ここでの暮らしが既[すで]に『わたし』の日常であるのだから。
一体どれだけの時間を『わたし』はここで過ごしたのだろう。
「ごめんよぅ。姉さん居[い]てるかい?」
よくしてもらっているおキヨさんの声が聞こえ、
私はめくったカレンダーを置いて玄関へと向かった。
「はぁい。こんにちは」
タタキを下り、薄く光の射[さ]す磨[す]り硝子[ガラス]の戸をカラリと開ける。
笑顔で迎えたおキヨさんは、意外にももう1人、男の人を従えていた。
その顔を見て、私は一瞬[ひととき]、動けなくなった。
面長[おもなが]の顔立ちに無造作[むぞうさ]に整えられた黒髪。
この辺りでは見かけない、いや、絶対に会うはずのない、人。
眉間[みけん]に皺[しわ]を寄せ、眼鏡[めがね]の向こうから、
突き刺すように真っ直ぐ見つめてくる。
「ああ、やっぱりねぇ。半年くらい前っていうから、
丁度[ちょうど]姉さんの事じゃないかって言ってたのさ」
私の顔を見たおキヨさんは、上機嫌でそう告げた。
「この人がね、人を探しているっていうもんでさ。聞いてみたら姉さんに良く似ててね」
んだもんで、連れて来たのさ。
人の良いおキヨさんの声も耳に入らず、私は男の顔をただ呆然[ぼうぜん]と見つめていた。
急速に口の中が渇[かわ]いていく。
「奏[かなで]…さん」
「探しましたよ」
喉[のど]の奥からやっと出た声に、厳[きび]しい表情のまま、
男―――奏さんは硬[かた]くそう、告げた。