葉書を出したのは、もうあの家には帰らないと伝えるため。
(母から聞いたのなら、迎えに来たらどうなるかも知っていたでしょうに)
 これまでにも、『わたし』を連れ戻しに来た人がいないわけではなかった。実際、 何人かはここを探し出している。
 けれど皆、『わたし』にこの薬を飲まされて、帰って行った。

 『わたし』の事だけ忘れるくすり。

 昔からあって、今も変わらずに処方できる薬。
 理屈は知らない。けれど、それを飲ませれば『わたし』だけがその人の中から消える。
 遠い昔、『わたし』は誰から聞いたのだったか…。それは思い出せないけれど、 作り方だけは今もわかる。
 『わたし』は何人、この薬で『わたし』をなくしたのだろう。

 座敷[ざしき]で深く眠る奏[かなで]さん。
 次に目覚めた時には、この人も私の事を忘れているのだろう。
 じくり、と心の何処[どこ]かの傷が開く。
(本当は)
 来て欲しかったけれど、来て欲しくはなかった。
(会いたかった)
 その想いがなかったわけではない。けれど…
(忘れて欲しくなかった)
 会う事ができなくとも、覚えていて欲しかったのに。
(だって)
 私は私を選べないから。
 我儘[わがまま]だと言われたならば、そうなのだけれど。
 抗[あらが]えなくて、私の日常より『わたし』を選んだのも私なのだけれど。
 それでも。
 このまま、『わたし』に呑[の]まれて私が消えてしまっても。
(覚えていて、欲しかったのに)
 さざなみのような想い。けれど…
 目を閉じで、それにゆっくり蓋[ふた]を、する。

 賽[さい]はもう、投げられてしまった。

 衣擦[きぬず]れの音がして顔を上げると、たった今まで深く眠っていたはずの奏さんが目を開け、 掛[か]け布団[ぶとん]をめくって起き上がっていた。
「気がつかれましたか?」
 動揺[どうよう]を押し込めて、私は、初対面の人に接するように、 そっと様子を窺[うかが]った。
 奏さんは私を視[み]、そのまま、どこか呆[ほう]けたような表情を見せた。
「ご気分はいかがです?」
 ゆるりと問いかけると、奏さんはそのまま、ひと言ことばを発した。

「…久布姫[くふき]?」





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