私の事は、忘れているはずだった。
 私に関する事も皆、ふうわりと曖昧[あいまい]になるはずだった。
 けれど。
「『何』、ですか?」
 問う私に、奏[かなで]さんはこちらをはっきり見て問うた。
「久布姫[くふき]、か?」
 声が届いた瞬間、心がふるふると震えた。
 その音は、ずいぶんと長い長い間、呼ばれる事のなかった『わたし』の名前。
 いちばん最初に、『あのひと』からもらった名前。
「な…。どうして…」
 長い間呼ばれる事のなかったそれは、ゆるりと時の中に埋[うず]もれたもの。
 母の親戚もこの里の住人さえ知ることはない名前。
 奏さんが知るはずのない、名前。
「久布姫? 髪が短く……いや、さとりさん?」
 混乱してるのか、額[ひたい]に手を当て、頭を振る。
 問われたのは、今の私の名前。
 その事実に、芯がすっと冷える。
(薬が、効かなかったの?)
 青ざめた瞬間、けれどそうではないと『わかった』。
 あの薬は、『あのひと』以外が飲むと私を忘れるもの。
 けれど、それが『あのひと』ならば、『わたし』の事を思い出す。
 それが、あの、薬。
 滝壷[たきつぼ]のかみさまにもらった、薬。
(でも、本当に…?)
 信じたいと心はふるえているけれど。
「誰から、聞いたの?」
 用心深く、私は奏さんに問いかけた。
「何をです?」
 怪訝[けげん]そうに眉[まゆ]をひそめる奏さんに、私は意を決して告げた。
「私じゃない、もうひとりの名前」
 ああ。と奏さんは苦笑した。
「すみません。夢と…混同していたようです」
「夢?」
「ええ。貴女[あなた]に良く似た女[ひと]が居たのです」
 髪の長いひとが。
「滝壷[たきつぼ]の傍[そば]で倒れていたそのひとに、僕があげた名前なんです」
 言って、奏さんは夢の内容を告げた。
 拾った頃は、頭の弱い子供みたいなひとでしたよ。会話すらままならなくて。でも、 教えると教えるだけ吸収するんです。家事もめきめきこなして、 料理もお袋[ふくろ]さん級に上手くなって。でも、魚だけは絶対に食べなくて。それと、 歩くのが下手なんですよ。すごく不思議なんですけれど、何もない所で転ぶし。 重心が上手くとれないらしくて…。
 奏さんの話す、それは。
 いちばん最初の『わたし』そのままで。
 奏さんが『あのひと』なのだと、疑うべくもないけれど。
「…夢?」
 夢だと告げるその様子に、ちりちり、と心が波立つ。
「それは本当に、『夢』? あなたの記憶じゃなくて、『夢』?」
(『わたし』も『あのひと』も。すべてを幻[ユメ]にしてしまうの?)
 私は、『わたし』は、ずっと。ずっと、覚えていたのに。
 え? と不思議そうな顔をする奏さんは、質問の意味を理解していなくて。
「ここの地名は日良背[ひらせ]。昔の名は『ひたせ』」
 苦しくて、睨[にら]みつける。
「あなたは言ったのよね。『帰ってくるから待っていろ』って。何のために『わたし』がずっと、 『ここ』に戻って来ていると思っているの?」
 告げると、奏さんはまさか、と目を見開いた。
「夢…じゃ……。まさか、本当に…久布姫?」
 私は、奏さんの目を見たまま告げた。
「私の名はさとり。でも、一番はじめの『わたし』の名は久布姫。『あのひと』がくれた名前だわ」
 白い花と一緒に。
「…どうして?」
 呆然[ぼうぜん]とした問いかけに、震える声で、小さく告げた。
「待って、いたの」
 ずっと一緒に居たい。
 『あのひと』はそう言ってくれたけれど。
 滝壷のかみさまとの約束があるからずっと一緒には居れない。
 そう説明したのに。
 なら、会ってお願いしてくる。…なんて。
 絶対に帰ってくるから、待っていてくれ。…なんて。
 やさしい、笑顔で告げて。
 そのまま、居なくなった、ひと。
 『わたし』は信じて、待っていて。
 待つことしか、できなくて。
 いつの間にか泣きそうになっていた私は、奏さんに抱きしめられていた。
「ただいま」
 ぱちゃん。と。
 何かか溶けた。
 それは。ずっとずっと『わたし』の中でこごっていたもの。
 …待っていなければならなかった。
 『あのひと』が危険な目に遭[あ]う事は知っていたから。
 生きて帰れないだろうことは見当がついていたから。
 それでも。
 送り出したのは『わたし』だったから。
 罪悪感がなかった、とは言わない。
 でも、信じていたのも本当で。
 長く、深く、想っていたのも本当で。
「おかえりなさい」
 溶けたそれは、あたたかく身体を満たして。
 涙のカタチに変わって流れた。





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