「海にね、人魚がいたの」
「人魚?」
唐突な言葉に訝[いぶか]しむ奏[かなで]さんに、私はそう、と肯定した。
泣くだけ泣いて落ち着いた私に、
奏さんは『あのひと』の記憶の全てがあるわけではないのだと告げた。
それは私も一緒だったけれど、納得のいかない奏さんに、
『わたし』について知っていることを話す約束をした。
「でね、魚って、川を上る種類がいるでしょう?」
川で生まれて海を目指し、育った後、川に帰るもの。
海で生まれて川を目指し、また海に下りてくるもの。
「その人魚はね、それが不思議で不思議でたまらなかったのよ。だから、魚に変化して、
皆と一緒に川を上ったの」
「そんな無茶な…」
「そう、無茶よね。でも、命がけでたどり着いたのが、あの滝壷[たきつぼ]だったのよ」
かみさまのおわした滝壷。
「そこで、魚から変化した人魚は、さらにかみさまに人にしてもらったの」
「そこを『あいつ』が拾ったんですね…」
隣に並んでいた奏さんは、そうひとりごちて、歩くペースを少しゆるめた。
少しきつめの坂道は、風が吹くたび枝葉の影を足元で踊[おど]らせる。
「そう。元は人魚だから、長く一緒には居られなかったの。かみさまとも約束をしてたから」
やさしくてきまぐれな、滝壷のかみさまと。
「でも、それを何とかしようと『あのひと』は、かみさまに会いに行った。久布姫[くふき]はね、
ただ待っていたわけじゃないの。あの後、久布姫もかみさまに会いに行ったのよ」
そして約定が交わされた。
『帰ってくる』と言ったのなら、帰ってくるのだろう?
好きなだけ待つといい。
そうして場所と機会を与えられた。
「久布姫は、死ぬ前に子を産んだの。その子は遠くの集落へ預けられてしまったけれど…。
『わたし』はね、その血の中から生まれて来たのよ。だから、私や『わたし』たちの遠い祖先が、
久布姫にあたるの」
「生まれ変わり…ですか?」
「生まれ変わりなのか、久布姫の血が目覚めるのかは知らないけど…」
最後の急な坂を上がって、私は足を止めた。
目の前には、高く落ちてくる細い滝。
足元の滝壷には、たぷりと水が湛[たた]えられている。
「ここが…」
奏さんも隣に並んで、細く落ちる滝を見上げていた。
私は靴[くつ]を脱[ぬ]ぐと、浅い水の中へと足を進めた。
腕[うで]の中には白の花束。カラー、マーガレット、霞草。他にも白の花が咲き乱れている。
ぱしゃり、と撥[は]ねる僅[わず]かな水飛沫[みずしぶき]。
流れる水はまだ少し冷たいけれど、素足[すあし]に気持ち良くて。ただ、
滑[すべ]らないようにだけ気をつけて、浅瀬ぎりぎりまで進む。
そしてその滝壷に、私は花束を散らした。
…『わたし』と、『あのひと』への手向[たむ]けに。