薪[たきぎ]に火が燈[とも]る。時は夕の刻[こく]。空が燃えてゆく時刻。 社[やしろ]の近くの広場には、奇妙なざわめきがあった。
 昨日、人々が総出で作り上げた舞台は、穢[けが]れのないよう清められている。今、 その舞台をとりまくように集落中の人々が集まり、今宵[こよい]の舞姫、 雨呼びの巫女の出番をうかがっていた。
 雨呼びの儀のための舞台は整っている。あとは雨呼びの巫女さえ出てくれば、 儀式は始まりを告げる。この乾いた大地に、雨を呼ぶ儀式が。
 翠雨[すいう]は衣装を身に纏[まと]い、ひとり社の中にいた。奥に祀[まつ]られているのは、 この地を治める守り神。しんとした社の中は、己[おのれ]の息づかいのみ聴こえくる。 狭[せま]く薄暗い板張りの間には、明かりは灯されていない。
 翠雨にできることは、雨呼びの巫女として雨呼びの儀を行うことのみ。 何もせずともやがて死が訪れるかもしれないのだ。ならば、 自分のできることを精一杯やった方がいい。
(悔いなど、残したくはない)
 心に浮かぶのは低い声。優しい笑顔。
『私と一緒に、ここを出よう』
 胸が締めつけられるような思い。
 断ったのは自分。逃げることはできないと。
(夕凪……)
 己の記憶を失[な]くした異訪者。昨日から姿が見えないのだと聞いた。 …自分などには愛想をつかして、他の地へと行ってしまったのだろうか。
 翠雨は懐[ふところ]から小さな包みを取り出した。夕凪[ゆうなぎ]だけに見せた、翠雨の宝物。 今やお守りのようになっているそれを見つめると、不思議と心が落ちついた。 まるで本当にそれに不思議な力が宿っているかのように。
「翠雨」
 外からの呼び声に、翠雨は包みを懐にしまった。
「……よいか?」
 時が来たらしい。
 翠雨は立ち上がると目を閉じ、深呼吸をした。心を落ちつけ、目を開ける。
「はい」
 自分のできることをするだけのこと。
 悔いの、残らないように。
 背筋を伸ばし、雨呼びの巫女は社を後にした。



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