一日の始まりは、覗色[のぞきいろ]の薄い空。浮かぶ雲は高く薄く、天へと向かう風に乗る。 彼方から降るような光に目覚めた生き物たちは、日が昇るとともに活動を始める。水を飲み、 草を食[は]み、蜜[みつ]を得る。鳥は空に歌い、虫は地で声を上げる。 山をめぐる風は肌に心地よく、涼を与える。
 雨呼びの儀より七日、潤[うるお]いを得た植物たちは、勢いよく葉を繁[しげ]らせ光を求める。 干上がっていた川は水を得、水車を回し、 浅瀬にはいつの間にか小さな魚も姿を見せるようになっていた。
 社[やしろ]の掃除[そうじ]を終えた翠雨[すいう]は、用具を戻し軽く伸びをした。 磨[みが]かれた床に満足し、外に出る。木漏[こも]れ日を浴びる足元には芽吹く雑草。 木々の間から見えるのは青の光。龍のいない、蒼[あお]の空。
 泣きたくなるような、蒼。
(いいお天気なのに)
 喜ばしいことなのに。翠雨は役目を果たし、こうして日々を過ごすことができているのだから。
 なのに、どうしてだろう。
 空は晴れても、心はもやもやして、まるで、まだ雨が降り続いているような感じがする。
 望んだものは得られたのに。
(引き換えにしたものを求めているなんて)
 どうしようもない嗤[わら]いがこみ上げてくる。
 ふたつとも欲しいなんて、なんて欲張りなのだろう。なんて浅ましいのだろう。…なんて。
 長く、息を吐く。
 浅ましい考え。
 望んだところで、叶いはしないのに。
 雨を連れた龍神は、天へと帰っていったのだから。
 …それでも。
 心に浮かぶのは大きな姿。
 耳に残っている、低い声。
 もう二度と聞くことの叶わない……
「翠雨」
 すっかり馴染[なじ]みの深くなった声が聞こえ、翠雨は体を強張らせた。
 低く、響く声。
 …だって。まさか。
 ゆっくりと、声のした方に顔を向ける。
 木漏れ日の下、歩いてくるのは……
「夕…凪」
 高い背丈。真っ白な髪。穏やかな、笑顔。
 ふいに熱いものがこみ上げて、身体[からだ]中の温度が上昇した。瞬[まばた]きとともに、 零[こぼ]れる涙。
「もう、会えないのかと思っ…」
 震えて、上手くしゃべれない。
 驚きと喜びと安堵[あんど]と。いくつもの感情が一度にうずまいている。 どうすればよいのかわからなくて、翠雨はただ、涙した。
 近づく、夕凪[ゆうなぎ]。
 その大きな腕に抱きすくめられる。
 そして。
( !!)
 額[ひたい]に受けた口づけに、翠雨の涙が止まる。
 見上げた夕凪は、真剣な瞳をしていた。
 ややあって、夕凪が口を開く。
「翠雨、私の妻になってほしい」
 その言葉に、翠雨は大きく目を見張った。
 言葉の出ない翠雨に、夕凪はやわらかく苦笑する。
「龍なんかの嫁になるのは嫌か?」
 問われて反射的に首を振っていた。
「…じゃない」
 唇[くちびる]が紡ぐ、ことば。
「嫌じゃ、ないわ」
 嫌である、はずがない。
「それに、夕凪は夕凪だもの。人間だとか、龍だとか、そういうことは関係ないもの」
 きっと、たぶん。
 だって、こんなにも心を揺らされるひとには、今まで逢ったことがない。…これからも、きっと。
「夕凪…」
 目を見つめる。薄茶色の、澄んだ瞳。
「浮気は、許さないから」
 それが、返事。
 夕凪は、自分よりもずっと長く生きるだろう。だけどせめて、自分が生きている間くらいは。
 翠雨の言葉に、夕凪は軽く驚いた表情を見せ、けれど次の瞬間、ふっと微笑んでいた。
「肝[きも]に銘[めい]じておくよ」
 告げて翠雨を抱きしめた。
 笑顔が、灯る。
 空の色は青。風にあおられ、緑は生き生きと高き青に向かう。天より降った雨は地に吸われ、 川に流れて遠き海を目指す。泳ぐ魚、走る獣[けもの]、空を往[ゆ]く鳥の群れ。ずっと昔から、 変わらない風景。
 空を仰ぎ、地に感謝する。はるか古代から、変わらぬ精神[おもい]。晴れの日も雨の日も、 月のない夜でさえ。
 そして喜びも悲しみも、すべてを受けとめ大地はめぐる。…はるか、古[いにしえ]の時代より。


 シャン、シャララ、シャン…

 鈴が、鳴る。

 シャラ、ラ、シャン……

 炎がはぜる。あかい、あかい炎。




 …そして、『祭り』が始まる。

The End.



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