同じ頃、水車小屋の矢吉[やのきち]は、今日のつとめを終え、田んぼから家へと向かっていた。 籠[かご]を背負った黒い影があぜ道に長く伸びる。西の空には朱[あか]い夕焼け。 桃色に染まる雲。籠の農具のぶつかる音が、虫の声と重なり響く。
(そういやこの頃、雨が少ねぇなぁ)
 夕焼けに染まる空に、矢吉はひとり思う。
 晴天続きなのはありがたいのだが、そろそろ一雨欲しい。潤[うるお]いが必要なのは、 人も植物も同じである。加えて水車小屋をもっている矢吉は、川の水の減りようも気にかかっていた。
(そろそろ雨神[あまがみ]様に来て頂かねぇとなぁ。……ん?)
 前方に大きな塊[かたまり]が目に入り、矢吉は歩みを止める。
(何だぁ? どっかの野郎が荷台から石でも落っことしたか?)
 馬鹿な野郎もいたもんだ。
 そう思いながらニ、三歩近づくと、塊が突然、ぴくりと動いた。
「うおっ!?」
 動かないと思っていたものにいきなり動かれて、矢吉は心臓が飛び出るかと思うほど驚いた。 鼓動が今までにない速さで体中をかけめぐる。しかし少しして落ちつくと、 今度は怖いもの見たさの好奇心がむくむくとわいてきた。
(まだお天道[てんとう]様は空にいらっしゃるで、化物[ばけもん]っちゅう事はねぇだろう)
 そろり、そろりと近づく。
 だが、それが何か判別できるような所まで来ると、矢吉は目をいっぱいに開き、 慌[あわ]てて農具を放り出してそれに駆け寄った。
「おい、大丈夫か? しっかりせぇ」
 石かと思ったそれは、ぐったりと倒れている白髪[はくはつ]の大男だった。熱があるのか、 額[ひたい]には汗が浮かんでいる。
 矢吉の声に、男はうっすらと目を開けた。しかし、呼吸は弱々しい。
「……………を」
 男は息だけで何かを言ったが、聞き取ることはできなかった。
「ちょっと待ってな。誰か呼んでくっからよ。くたばってんなよ」
 それだけ言うと、矢吉は普段見ることのない必死の形相[ぎょうそう]で、 集落へとものすごい速さで駆け出した。
 残された男は安心したのか、そのまま目を閉じ、意識を深い海へと沈めた。
 乾いた風が吹き抜ける。空の高い所では、深く変わってゆく色がひととき、 薄い雲に翳[かげ]をこぼした。



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