灯[とも]した明かりのすぐ先でやさしい唄[うた]が聞こえ、 翠雨[すいう]は懐かしい音律に目を細めた。まだ幼い頃、眠りに落ちる前までずっと、 聞いていた子守歌。単調な、けれど母親の想いを含んだ、ひどくやさしい音。
 藍[あい]の色水を垂らしたような空は、気の早い星々が小さな光をそっと飾る。 それをざくりと切り取るのは、黒く大きな稜線[りょうせん]の影。ぷくりとした大きな月は、 未だ山の向こうで出番をうかがっているらしい。
「おや、誰かと思ったら翠雨じゃないかい。おかえり、今日はずいぶんと遅かったんだねぇ」
 唄の代わりに聞こえてきた声に、翠雨はそうなの、と苦笑した。声の主は、 翠雨のよく知る近所の若い母親のものだった。明かりを持って近づくと、 背には眠りに落ちそうな幼子をおぶっている。
「山菜[さんさい]を探していたら、珍しい薬草を見つけちゃって。それを摘んでいたら、 いつの間にか凪[なぎ]の刻[こく]になっていたの。あ、もちろん山菜も摘んだのよ」
 言って背中の籠[かご]を示してみせる。
「あらあら、時を忘れるまで夢中になるなんて、翠雨にしちゃあ珍しいこと」
「だって、二年ぶりに見つけたんだもの」
 からかわれて赤くなる翠雨に、母親はああそれで、と笑んだ。
「だから機嫌がいいんだね」
「え?」
 脈絡[みゃくらく]のない言葉にきょとりとする。
「だって顔中に『いい事がありました』って出てたもの。そりゃあ、 何があったのか知りたくなるくらいにねぇ」
 にこにこして言う母親に、翠雨は思わず両手を頬[ほほ]に当てた。
「嫌だわ。わたし、そんな顔してるつもりなんてなかったのに」
「いいじゃないのさ。せっかくの器量[きりょう]良しなんだから、 笑顔を振りまいてくれるくらいじゃなくちゃ」
「そんな、器量良しなんて……」
 とんでもない、と言う翠雨に母親はからからと笑う。
「照れなくてもいいじゃないかい。ほんと、翠雨はかわいいねぇ」
 二の句の継げない翠雨を横目に、母親は子供を背負い直した。
「で、それはそうと。珍しいついでにさ、さっき水車小屋の矢吉[やのき]っつぁんが、 男がぶっ倒れてるとかって血相変えて飛んで来てねぇ。信じられるかい? あの矢吉っつぁんがだよ?  …なもんだからさ、若いのが何人か行って、その行き倒れを荷車で運んで来たんだけどね」
「あら、それは珍しいわね」
 翠雨は素直にそう告げた。
 この集落付近で行き倒れに出くわすことも、 朗らかな矢吉[やのきち]が血相を変えることも滅多にない。
「それがまた、でっかい男なんだよ。あたしもちらっと見ただけなんだけどさ、 あの八助[はちすけ]よりでかかったんだから。それにあの髪。そりゃあ見事に真っ白でさぁ、 まったくどこの者だろうね、あれは。着てるものまでけったいなんだから」
「白い髪? それじゃあかなりの爺様[じいさま]だったの?」
 けれど翠雨の問いに母親はいいや、と首を振った。
「爺様なんてとんでもないよ。まだ若い男さね。けどさ、顔つきは見事なくらい整っててねぇ。 あたしゃ、神さんが降りてらしたのかと思ったよ」
「へぇ。あの八助より大男なんていたの? わたし、八助より大きな人なんて想像もできないわ」
 翠雨が告げると、母親はそりゃそうだろう、と笑った。
 西の山の入口に横たわる大岩ほどもある背丈の八助は、この近辺では一番の大男である。 その八助よりも大きな人間がいるなど、翠雨には考えもつかないことであった。
「今は矢吉っつぁんの所で寝てるよ。明日にでも行って来たらどうだい?  里一番のべっぴんさんが見舞いに行きゃあ、目を覚ますかもしれないよ?」
 冗談めかした言葉に、翠雨は曖昧[あいまい]に微笑んだ。
「ん……ふ…くぅっ……」
 と、母親の背中で幼子が身じろぎする。
「おや、まだ寝てなかったのかい」
 母親は言って、ずり落ちる子供を背負い直した。その様子に翠雨は明かりを持ち直す。
「それじゃあ、わたしはこれで」
「ん、また明日ね」
 軽く会釈[えしゃく]をして背を向ける翠雨を見送りながら、母親はそっと独りごちていた。
「…本当に器量はいいし素直だし、雨呼[あまよ]びの巫女[みこ]様なんかじゃなかったら、 若い者どもがほっときゃしなかったろうにねぇ」
 隣の里から嫁[とつ]いで来た若い母親は、優しい瞳で後ろ姿を見届けると、 再び子守歌を口ずさみ出した。
 空の色は深藍[ふかあい]色。瞬[またた]く銀の光たち。欠けた大きな橙[だいだい]の月は、 雲に遮[さえぎ]られることなく、のそりと山の端[は]から昇りはじめた。



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