翠雨[すいう]の属する集落は、周りをぐるりと山々に囲まれている。 東の端を細い川が流れているが、水は深く井戸を掘って手に入れる。人は山々のすき間に家を構え、 田畑を開き、わずかに捕れる魚と収穫物、そして山からの恵みを糧[かて]として生活している。
 さして大きくもない集落で、日々の変化に乏[とぼ]しく人口も少ない。 そんな土地柄[がら]だからか、行き倒れの大男の噂は、 一晩にして集落の誰もが知るところとなっていた。次の日には娘たちの多くが、 何かと理由をつけて東の川沿いに建つ矢吉[やのきち]の家へ訪れたというのだから、 白髪[はくはつ]に整った顔立ちだという容貌[ようぼう]の特異さも、 噂を広めた原因の一つであったのかもしれない。
 翠雨がその男に会ったのは、噂を聞いてから二日後の事だった。
「こんにちは。矢吉さんいますぅ?」
 開け放たれた戸の手前。足元の踏み固められた土の上に抱えて来た大きな麻袋を置きながら、 翠雨はそう声をかけた。だが体を起こし家の中を見ると、矢吉の機嫌の良い声の代わりに、 翠雨の目には白いものが飛び込んできた。陰[かげ]った家の中には似つかわしくない、白い色。
(え?)
 驚き、光に慣れた目を何度か瞬[しばた]かせると、 それが何なのかしだいに判[わか]るようになった。
(髪の毛……)
 それは、雨露[あまつゆ]が光を弾いた時のような美しさを持つ、白く長い人の髪の毛であった。 強い光を縒[よ]ったようなそれが、光の弱い家の中、際立[きわだ]って目に映ったらしい。
 くせのない真っ直ぐな髪は、持ち主の動きに合わせてゆたりと揺れる。
「あの……?」
「え、あ…」
 訝[いぶか]しげにかけられた低い声に、入口に突っ立ったまま見とれていた翠雨は、 はたと我に返った。
「あ、えっと。矢吉さん…は?」
「あれ? 翠雨ちゃん?」
 後ろから声をかけられ振り向くと、そこにはこの家の主人の姿があった。 ひょろりとした猫背気味の男は、手に色褪[あ]せた着物を抱え、ほてほてと歩いてくる。
「あ、矢吉さん」
 翠雨はほっとして主人の名を呼んだ。
「何? どうかしたんかい?」
 矢吉は、日に焼けた人のいい笑顔で問いかけた。
「ええ。これを碾[ひ]いてもらうようにって祖父[じい]様が」
 翠雨はそう言って足元の麻袋を指した。この辺りで穀物を碾いて粉にする機械があるのは、 水車小屋のある矢吉の家だけである。
「ああ、わかった。ま、家[うち]ン中入りな」
「はい。あ、あの……」
「ん?」
 翠雨の視線に気づいて矢吉が見やると、そこには白い髪の男がいた。
「ああそっか。よう、待たせたな。八助[はちすけ]ン所で服もらって来てやったぞ」
 にぃと笑むと、矢吉はずかずかと家の中へ入って行った。ほい、と服を渡すとくるりと後ろを向く。
「翠雨ちゃん、そんな所で突っ立ってねーで入って来な」
「あ、ええ」
 矢吉の手招きに曖昧[あいまい]に返事をし、麻袋を持ち上げると、翠雨は陰へ足を踏み入れた。
「ああ、袋はその隅[すみ]にでも置いといてくれるか。 なんせ昨日に『粉にしてくれ』ってのが一遍[いっぺん]に来てなぁ。粉碾きは動かしとるんだが、 量がすごくてなぁ」
「そんなにたくさん来たの?」
 麻袋を隅へと置きながら、普段なら起こりえない状況に、翠雨は目をまるくして問うた。 粉を碾く機械は矢吉の所にしかないとはいえ、頼みに来るものはまばらで、 一度に二組以上が重なることは滅多にない。
「おうよ。ま、大方[おおかた]ソイツ見る口実で来たんだろうがな。んな訳だから、 社主[やしろぬし]様に碾けるのにちょっくら時間がかかるってお伝えしてくれや」
「ええ、祖父[じい]様には伝えておくけれど…じゃあ、そちらの方が?」
「ああ、そーそー。コイツが道のど真ん中に倒れててよ、 いやもー驚いたのなんのって……何馬鹿みたいな顔してンだ? お前」
 白髪の大男は服を受け取った格好のまま、呆然[ぼうぜん]と翠雨を見つめていた。
「え? いや」
「ははん、里一番のべっぴんさんに驚いたか?」
「やーねぇ矢吉さん。おだてても何も出ないわよ」
 にやりと笑む矢吉に翠雨は苦笑してそう言うと、手をはらって男の方を向いた。
「はじめまして、わたしは翠雨[すいう]。どうぞよろしくね。 あなたの名前を訊[き]いてもいいかしら?」
 穏やかな笑顔で問われた男は、だが困ったように矢吉を見た。それを受け、 矢吉の眉間[みけん]にも皺[しわ]が寄る。
「駄目なんだよ翠雨ちゃん。コイツ、自分が誰だか忘れちまったみたいなんでさぁ」
「え?」
「だから、今んトコ名無しの権兵衛[ごんべえ]なんだわ」
 腕を組んでそう言われ、翠雨は男をまじまじと眺めた。高い背丈に見事な白髪。 まだ体調が戻っていないのか、顔色はあまり良くないが、その造[つく]りは申し分なく整っている。 年齢は、二十代後半といったところだろうか。噂に聞いていた通りの容姿である。
「ほんとうに、何も覚えていないの?」
 翠雨の問いに、男は力なくああ、と答えた。
「…珍しい事もあるものね」
「だろ? だからよ、思い出すまでここにいろって言ってンだ。 わしとしても働き手が増えるのはありがたいことだしなぁ」
「そうねぇ、自分が誰かもわからないのなら、動き様[よう]もないものね」
 提案に納得する翠雨に、矢吉はそうだろう、と満足げに頷[うなず]いた。
「でも、それならやっぱり名前がないっていうのは不便よね」
 言いながら口元に手をあて小首を傾[かし]げてみせる。
「ん、ああ。まーな。けど本人も忘れてンじゃあ、しょうがあるめぇ?」
「そうなんだけど。……あ、ねぇ。あなたが倒れていたのって凪[なぎ]の刻[こく]だったのよね?  確か」
「あ、ああ。そうらしいが」
 翠雨の問いに男は頼り無げに頷いた。
「なら、本当の名前を思い出すまで、『夕凪[ゆうなぎ]』っていうのはどうかしら?」
 にっこり笑む翠雨に男は軽く目を見張って硬直し、矢吉は口をぽかりと開けた。
「ゆ、夕凪ぃ? 翠雨ちゃん、コイツ呼ぶンなら『白髪[しらが]野郎』の方がいーんでねぇ?」
 見事なまでの白い髪を指して、矢吉はそう言った。
「あら、夕凪の方がいいわよ。ねぇ?」
「え? ……ああ、まあ」
 水を向けられ、男は戸惑いながら返答した。
「ほら。本人も夕凪がいいって言っているわよ?」
 勝ち誇ったような笑顔。その強引な物言いに、矢吉は失笑する。
「わぁった。夕凪でいい。……ったく翠雨ちゃんには敵[かな]わねぇな」
「ありがとう。それじゃあ、あなたの名前は今から夕凪ね」
 笑顔で告げる翠雨に、今さら「嫌だ」などと言えるはずもなく、『夕凪』という名をもらった男は、 土壁[つちかべ]の匂いの中でただ、ああと頷いた。



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