からりと晴れた青の空。高く風に乗る数羽の鳥。ふわり舞う、 蒲公英[たんぽぽ]の綿毛[わたげ]。地を渡る風は、水気をあまり含まず、からからしい。
 それでも空に陣取る太陽は、地面の労働者たちにじんわりと汗をかかせる。 大切な穀物を無事に育てるには、雑草や害虫との戦いである。天候の機嫌もさることながら、 こちらも秋の実りに大きく影響する。
「夕凪[ゆうなぎ]ーっ」
 自分を呼ぶ澄んだ声に、見事な白髪の男は畑から顔を上げた。濃い山の緑を背に、 ゆるく編んだ長い黒髪を揺らしながら走って来るのは……
「翠雨[すいう]」
 姿を認め名を呟[つぶや]くと、男は立ち上がり、 脛[すね]についた土をはらって縁[へり]へと足を向けた。翠雨も縁まで駆け寄ると、 深呼吸し、息を整える。
「あのね、祖父[じい]様に頼まれて矢吉さんの所まで行ったら、夕凪は畑にいるはずだから、 行ってこれを渡して来てくれって言われたの」
 渡された籠[かご]の中には、茱萸[ぐみ]の実を乾燥させた菓子が入っていた。 休憩でもしろということだろう。
「それじゃあ、せっかくだから少し休むかな」
 汗をぬぐってそう言うと、夕凪は翠雨とともに木蔭[こかげ]へと移動した。
 行き倒れの大男は、しばらくの間、水車小屋の矢吉[やのきち]の家に同居することになっていた。 未だに記憶を取り戻せないものの、夕凪と名づけられた男は自ら進んでよく働き、 人当たりのよい物腰で、集落の人々にもそれなりに受け入れられていた。だが、 それには名づけ親である翠雨のおせっかいによるところも大きかったらしい。 夕凪と翠雨が楽しげに一緒にいる様子は、よく見かけられていたのである。
 そしてこの頃では、男も『夕凪』という名に抵抗を感じなくなっていた。 まるでその名が自分の真名であるかのように。
「あのね、夕凪」
「ん? 何だ?」
 嬉しげな翠雨に夕凪が問うと、翠雨はいいものを見せてあげる、 と懐[ふところ]から小さな包みを取り出した。
 包みの中には白みがかった半透明な、二枚貝の貝殻を薄く薄く伸ばした様なものが入っていた。 翠雨の手のひらの半分ほどのそれは、蔭[かげ]の中、木漏[こも]れ日をやわらかく弾[はじ]く。
「それは?」
 夕凪が尋ねると翠雨は、まるで秘密の宝物を見せる子供のような表情で話し出した。
「これはねぇ、空から降ってきたの。そうね、確か凪[なぎ]の刻[こく]ぐらいの時に」
「空から?」
 問いかけながら、夕凪は奇妙な感覚に襲[おそ]われていた。何だか、 とても大事なことを思い出せないでいるような、そんな苛立[いらだ]たしさが、 ふつりふつりと湧[わ]き上がってくる。
 だが、翠雨は夕凪のそんな様子には気づかず、笑顔でええ、と頷[うなず]いた。
「きれいでしょう? わたし最初ね、神様の落としものかと思ったの」
 だってあんまり綺麗な空から落ちてきたんだもの。
 くすくすと笑いながら、楽しげに言う。
「翠雨……」
「『狂い』が来たぞ―――――――――――――――っっ」
 夕凪が何かを言いかけた時、櫓[やぐら]の方から声が上がり、鉦[かね]が辺りに鳴り響いた。
「何……?」
 山の方から土煙[つちけむり]が上がっている。それは、 とてつもない速さでこちらに向かっていた。
「逃げなきゃ……」
 翠雨はそれを目にすると、途端[とたん]に笑顔を消し、すっくと立ち上がった。
「何が?」
 事態を把握[はあく]できていない夕凪に、翠雨は険[けわ]しい顔で告げた。
「『狂い』が来るわ。早く逃げないと……」
「くるい?」
「いいから早く」
 会話を交わしている間にも、土煙は近づいていた。
「一体何が……?」
 夕凪は目をこらして土煙を見た。その間にもみるみるこちらに近づいてくる。
「……大猪[おおいのしし]」
 それは、暴れ狂う大猪だった。土煙をもうもうと上げ、ひたすらに直進している。
「夕凪っ!!」
 翠雨は避難しようと夕凪の腕を引いた。だが、夕凪は大猪に目がくぎ付けになっていて、 その場を動こうとしない。
 大猪は、すぐ間近に迫っていた。
 夕凪は無意識の内に翠雨を背にかばった。迫り来る大猪をじっと見つめる。 大猪は完全に『狂い』に侵[おか]された目をしていた。こうなった獣[けもの]は、 力尽きるまで暴れ、走り狂う。
 だが、夕凪は何故[なぜ]か恐怖を感じていなかった。 巻き添えをくらえば怪我[けが]をするのはわかりきっているというのに。 運が悪ければ撥[は]ね殺されるかもしれないというのに。それでも、 夕凪に恐怖という言葉はなかった。ただ、大猪を正面から見据える。
 大猪が、迫る。
 翠雨はかたく目を閉じ、夕凪の服をぎゅっと掴[つか]んだ。
 ふいに、大猪の足音がぴたりと止む。
 突然の変化を不思議に思い、翠雨はそっと目を開けた。大猪はほんの二、 三メートル先で荒い息を吐[は]きながら、夕凪と睨[にら]み合っていた。
 お互い、その場所をゆずらない。
 しばらくそのままの状態が続いたが、ふいに大猪が後ずさった。その刹那[せつな]、 夕凪の中に言葉が浮かび上がる。
「帰るがいい。お前の在[あ]るベき所へ」
 厳[おごそ]かに告げると、途端に大猪は振り返り、やって来た方角へと猛スピードで駆け出した。
 翠雨はその様子を呆然[ぼうぜん]と見ていた。その事実をまだ信じられないでいた。
(何? 何だったの? 今の……)
 夕凪は何をしたのだろう。どうして『狂い』は帰っていったのだろう。
 夕凪が、ゆっくりと振り返る。いつもと何ら変わらない表情で。
「……夕凪?」
 見事な白髪の背の高い男。
 ……その人物は、翠雨が知っている者であるはずだった。



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