← → その夜、月が高くに昇った頃。話がある、 と翠雨[すいう]は夕凪[ゆうなぎ]に連れられ外へと出た。 空には満面の星が浮かんではいるものの、地上を吹き抜ける風に湿り気はない。
その中を二人はしばらく無言のまま歩いた。昼の太陽に取って代わった夜空の支配者たちだけが、 煌々[こうこう]と薄い光を放つ。
話の内容は見当がついていた。明後日[あさって]に雨呼[あまよ]びの儀[ぎ]を行うのだと、 集落中に知らされている。そして、翠雨は儀を行う者―――――雨呼びの巫女なのだ。
「翠雨」
長い沈黙の後、夕凪はそっと名を呼んだ。
翠雨はうつむいていた顔を上げた。どこか辛そうな瞳と合う。
(聞いたのね)
その瞳を見て、翠雨はそう思った。夕凪は、 儀式が失敗すれば巫女がどうなるのかを聞いたのだろう。でなければ、 夕凪がこんな表情をするはずがない。
「大丈夫よ。きっと雨を呼んでみせるから」
笑む事はできなかったけど、そう言った。
確証など、どこにもないけれど。
でも、それでも。
呼ばなければいけないのだ。
…翠雨は、雨呼びの巫女なのだから。
「……くは」
「え?」
よく、聞こえない。
「怖くは、ないのか?」
低い声。
ずきりと、その言葉は翠雨の胸に刺さった。
鈍[にぶ]い、痛み。
……卑怯[ひきょう]だ。
そう思った。
「…ってない」
こんな時にそんな言葉を言うなんて、卑怯だ。
「怖くないなんて、言ってないわ。……怖いわよ。当たり前じゃない」
声が、震えていた。
無事、雨が呼べればそれでいい。何も問題はない。
けれど。
雨呼びが失敗すれば、その時は。
『雨呼びの巫女』は生贄[いけにえ]として、自らの命を投げ出さねばならない。
「けど、どうしろと言うの? このままでは、みんな飢[う]えてしまうのよ? …わたしは『雨呼びの巫女』なの。わたしなら、雨神様を呼ぶことができるかもしれないの。 ……なら」
巫女様。雨を呼ぶ巫女様。
幾度[いくど]崇[あが]められたことか。
「……わたしは、わたしができることをしなければならないの」
自分にしかできないことならば。
…けれど。
でも。
つう、と何かが頬[ほほ]をつたった。
渦巻く恐怖は、胸に、ある。
夕凪は何も言わなかった。
何も言わず、ただ、そっと翠雨を抱きしめた。
天[そら]に在[あ]る、白の星々が瞬[またた]く。
やわらかな、月のひかり。
包まれるのは、乾いた夜気。
「嫁に、ならないか」
耳もとで囁[ささや]かれた声に、翠雨はゆるりと顔を上げた。
腕を緩[ゆる]めず、夕凪は告げる。
「山を越えてここを出よう。大地は、ここだけではないのだから、実りの豊かな所もきっとある。 日と月の果てを追うのもいい。……私[わたし]と一緒に、ここを出よう」
低い、甘い声。
幸せを、願う声。
逃げ道を、与える声。
辛[つら]いなら、逃げる路[みち]もあるのだと―――――――――――
抱[いだ]かれている、安心できる大きな腕。
(このひとはわたしのすきなひと)
翠雨を想ってくれるひと。
翠雨をまもってくれるひと。
でも。
でも……?
(わたしは…)
「ごめんなさい」
体を離して翠雨は告げた。
「……ありがとう。そう言ってくれるのは、すごく嬉しいの。でも、ごめんなさい。わたしには、 ここを出ることはできないわ」
言って夕凪に背を向ける。
「…翠雨」
「ここは、わたしが生まれた所なの。わたしを、育ててくれた所なの。だから……。ありがとう」
そうして、振り返る。
互いに目が、合う。
「……おやすみなさい」
その言葉だけを残して、翠雨は家へと足を向けた。
遠ざかる足音。
取り残された夕凪は、長く息を吐くと乾いた草の上に腰を降ろして天を見上げた。
降るような銀の星空。
深く根を張る大木がざわりと枝を鳴らす。
乾いた夜気と陰の中、このとき自分たちを見る目があったことに、翠雨はもちろん、 夕凪もまったく気づいてはいなかった。
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