目を開けると、そこには空間が広がっていた。
 異空間。
 何もない世界。
 ただ、空間だけが無限に広がっている。
 足元すら覚束[おぼつか]なくて、ルナは一瞬めまいを感じた。
 言葉では、到底[とうてい]表すことのできない世界。
 今までいた場所とは違う、違いすぎる世界。
 全く異なった世界。
 そして、そこに一人佇[たたず]む『彼女』がいた。
 実在しているのかさえ疑わしくなるような存在。
 色に例えるなら『透明』というのが一番しっくり来るもしれない。
 さらさらと風になびく、長いストレートの髪。
 いや、風などというものが、この空間に存在しているのだろうか。
 あまりに曖昧[あいまい]すぎているのだ。ここに在[あ]るものすべてが。
 はっきりとしたシルエットを持たない『彼女』は、祈るように胸の前で手を組み、瞳を閉じていた。
 この空間では、唯一[ゆいいつ]『彼女』だけが『在るもの』であった。
「『世界―――』っっ」
 が突然、すぐ隣[となり]で嬉[うれ]しそうな声が上がり、 藍色の髪の少年が『彼女』の元へと駆け出した。その姿に、 ルナはここにいるのが『彼女』だけではないのだと思い出した。
 駆け寄るクレイに、『彼女』がこちらの方を向く。
 ふわり、と空気が動いた。
「…あれが、世界?」
 長い、ストレートの髪。すべてを慈[いつく]しむような、やさしい瞳。

 『聖母』

 そんな単語がするりと出てきた。
 ルナの呟[つぶや]きに、レイ・ナンシェが説明する。
「そう。あの方が『世界』と呼ばれる方。私たちシャーレが同調できる唯一の者よ。 そして私たちすべてを生み出した者。私たちの生きる世界の傍観者[ぼうかんしゃ]。 すべてを知っていて、すべてを知らない者。それが、あの方」
 それは、『シャーレ』としての知識。膨大[ぼうだい]な情報のひとかけら。
 傍[そば]に立つチェスターも、つけ加えるように告げた。
「『世界』は意識体でしかない。今見えているあの方は、 その意識が具現化[ぐげんか]したものにすぎない」
「『世界』っていうのも、あの方の呼び名なだけなの。『世界』の本当の名前は、 だぁれも知らないわ」
 ユーシュンも『世界』を見つめながら、熱に浮かされたようにそう呟いた。
 『世界』は声も発さず、笑顔で話すクレイを穏やかに見つめる。けれどふと顔を上げ、 その視線がルナと交差した。突然の事にぴくりとも動けないルナに対し、 『世界』は穏やかに穏やかに、やさしく微笑んだ。
 緩やかな色の、可憐[かれん]な花がふわりと咲くように。
「あ……」
(なつかしい)
 どうしてだろう。何故[なぜ]そう思ったのかなんてわからない。けれどただ、 なつかしいとだけ感じた。
 そう、ルナの核[かく]が漠然[ばくぜん]と『世界』を「なつかしい」と感じていた。
 赤く染まる夕焼けのような。冷たい夜空に輝く星座のような。オアシスの水の匂いのような。 乾いた風の纏[まと]う砂っぽさのような。素足[すあし]で踏[ふ]みしめた大地の温度のような。
 何だかわからないけれど、今すぐ駆け出したいような。知らない何処[どこ]かへ帰りたいような。
 …そんな、感じが込み上げて来る。
「ルナ?」
 ラークに頬[ほお]に触[ふ]れられて初めて、自分が涙を流していることに気がついた。
「あ。あたし…」
 『世界』が、ゆっくりとルナへと近づく。
「『世界』?」
 気がつくと、ルナは『世界』にふわりと抱きしめられていた。
(ああ…)
 満たされてゆく。
 やさしい想いで満たされてゆく。
 切ないような、嬉しいような。わからないけれど、あたたかい、気持ち。
 その気持ちに包まれて、ルナは『世界』と同調した。



 薄暗い、廊下。
(ここは…何処[どこ]?)
 ルナは、知らない場所に立っていた。
 等間隔に並んだ、白く太い石の柱。広い廊下に敷[し]かれているのは、 細かい柄[がら]の織り込んである絨毯[じゅうたん]。壁に掛[か]かっている大きな織物は、 何かの物語の一場面らしい。目をこらすと、天井にも精密で美しい絵が描かれている。 まるで噂[うわさ]で聞いた、城の中のようだ。
 ものめずらしげに周りを見ながら廊下を進むと、大きな扉に出くわした。
 豪勢[ごうせい]な飾りのついた扉に、ためらいながらも触れようとすると、手が扉を突き抜けた。
(え?)
 そのまま扉をすり抜ける。
(あたし…?)
「どうかお願いです。私[わたくし]を解放して下さい。『白の涙』が行方不明となった今、 世界のバランスが崩[くず]れています。一刻[いっこく]も早く見つけ出し、 在[あ]るべき所に戻さないと、このままでは世界が滅んでしまいます」
 考える間もなく、澄んだ若い女性の声が部屋に響いた。
 そちらに目を向けると、段の上で偉そうに豪華なイスに腰かける男性と、 綺麗な薄青紫色の髪と瞳をした、巫女らしき姿の娘がいた。
 広々とした、けれど豪勢で華美な部屋に、あの男性はここの主[あるじ]なのだと、 ぼんやりと納得する。
「それは出来んな」
 低い、しかしよく通る声。
「何故[なぜ]です? 世界が滅んでも構[かま]わないとでもおっしゃるのですか?」
 娘の問いかけに、男は不敵に笑った。
「構わんな」
「なっ !?」
 薄青紫の瞳が、大きく開かれる。
「シセン、お前はわしのものだ。世界が滅びようと、手放すわけにはいかんな」
 どこかで聞き覚えのある名前に、ルナは首を傾[かし]げた。
(シセン? …って確か、前の白のシャーレが…)
「何という事をおっしゃるのです。本当におわかりなのですか? 世界が滅びるという事が、 どういうことなのか」
 男はそれに応えずに、鋭[するど]い目を細めた。
「シセンの監視を強化しておけ。城から絶対に逃がすな」
 近くにかしずいていた数人に言い放つと、男はイスを立ち、部屋を出て行った。
 ルナの目の前を通ったにもかかわらず、まるで気づいていない様子であった。
 ひやりとしていたルナは、無意識に入っていた力を抜く。
(何? どうなってるの?)
 その疑問も解けないうちに、突如[とつじょ]、強い風がルナに吹きつけた。
(何っ !?)
 体がさらわれて、ふわりと浮かび上がる。
 そのまま風に包まれて、世界が変わる―――――――――――――








「んぎゃあ、んぎゃあ…」
 赤子の泣き声に目を開けると、そこは砂漠だった。
 乾いた空気。岩砂漠のようで、硬[かた]くひび割れた大地に大きな石が点在している。
 沈みかけた太陽。先程までいた部屋の跡など、かけらも見つからない。
 少し先には赤子の泣き声が聞こえる籠[かご]。 蔓[つる]を編んで作ってある籠は移動する時に使われるもので、そんなに大きくはない。
(どうしてこんな所に赤ちゃんが。……捨て子?)
 籠に近づこうとすると、ルナがたどりつく前にそれはふわりと浮き上がった。
(え…?)
 よく見ると、微[かす]かに人の形をとったものが、籠を持ち上げている。 生身の人間ではないようで、ぼんやりとした輪郭[りんかく]が見える。淡い色。 長い髪に巫女服。その哀しげな瞳は……
(さっきの、……シセン?)
 赤子を大事そうに抱きかかえ、顔を覗[のぞ]き込んでいる。
「見つけたわ。シャーレの力を受け継ぐ素質を持った者。南の果ての風」
(南の果ての、風?)
 シセンは籠を抱えたまま、砂漠を移動した。程なく洞窟[どうくつ]が表れ、 迷うことなくその中へと歩を進める。
 どこかからもれる光のおかげで視界を奪われることもなく、奥へとたどり着くと、 シセンは籠を地面に置いた。そして、ルナの知らない呪文を唱える。
 まるで歌のような、細いけれどしっかりとした声が、洞窟に反響する。 聖魔文字[せいまもじ]は描かれないまま、けれど呪文の詠唱とともにシセンが淡い輝きを帯びた。
 赤子の額[ひたい]に指の先を当てたまま、発動のことばが紡がれる。
 …と、シセンを取り巻いていた光が消えた。
 ほぅ、と息を吐いて、赤子に愛[いつく]しむような笑顔を向ける。 けれどふいに心配そうな表情に変わり、しばらくそのまま考え込むと、 シセンは別の呪文を唱え始めた。
「時縛[ディア・クリス]、ラスティア !!」
 詞[ことば]と解放のコトバを唱えると、赤子がクリスタルに包まれた。
 透明な、淡い青と緑の中間色のクリスタル。
(あのクリスタル…… !!)
 思った瞬間、ルナは風に包まれていた。
 何が起こったかも把握[はあく]できないまま、体が浮かび、 ぐにゃりと視界が変化する――――――







 地面に足がついて、恐る恐る目を開けると、先程と同じ洞窟の中だった。
 目の前には、クリスタルに包まれた赤子。何かに巻き込まれた感じがしたのに、 特に変わったところは見当たらない。隙間[すきま]から射す光量さえ変わらない。違うのは、 シセンの姿がないだけである。

 …カツンッ カツンッッ

(え…?)
 他に違いはないかと洞窟の様子を探るルナの耳に、後ろから靴音[くつおと]が反響してきた。
 音と共にぬっと現れる人影。
「何だ? これは…」
 現れたのは、二十代半ばの男性だった。
 短く切った黒髪。鋭い黒の瞳。身につけている衣装は、馴染みの深い白の国のもの。 額に布を巻き、手には鮮やかな模様の入った日除けを持っている。
(もしかして、あれって……頭[かしら]?)
 もちろんずっと若いのだが、あの独特の雰囲気。間違えようもない。
 南の盗賊の頭、ジンの他にあんな雰囲気を持つ者をルナは知らない。
「赤子が、どうしてこんな…」
 ルナに気づかず、クリスタルの傍[そば]へ寄る。クリスタルに触れる寸前、 すっと現れた気配にジンは、伸ばしていた手を引いて身構えた。
 そこに現れていたのは、意識体のシセンだった。
「 !!! ……何者だ?」
 予想外のものの出現に驚いたのか、一瞬固まったものの、取り乱すことなく、 ジンは低く睨[にら]んで問うた。
「私は、シセンと申します。もっとも今は意識体ですが」
 シセンは優雅に礼をとった。ジンは思わずそれに見惚[みほ]れる。
「どうかお願い、このままでは世界が滅んでしまいます。どうかこの子を守って下さい。 この子は世界の滅びを止めることのできる唯一の者なのです」
 シセンは手を組み、真剣な眼差[まなざ]しでジンに訴えた。
「此処[ここ]を見つけた貴方[あなた]だから。どうかお願い。ずっと待っていたのです。 どうかこの子を育てて。そして『白の涙』を探して下さい。世界の滅びを止めるには、 あれを在[あ]るべき場所へ戻すしか、方法がないのです」
「ち、ちょっと待ってくれ。あんた一体、何者なんだ?」
 ジンの焦ったような問いに、シセンはすっと背筋を伸ばして告げた。
「私は、シセン・カルム・フェリア。前代の白のシャーレです。そして、この子は現白のシャーレ。 南の果ての風、クゥイン・テルナ」
 きっぱりと告げるシセンの言葉を、ルナは息を呑[の]んで聞いていた。
(やっぱり、あれはあたし…?)
「どうか、世界を、『世界』の想いを壊さないよう、滅びを止めるため、力を貸して下さい。 私は…私の身体は、白の城に幽閉[ゆうへい]されているのです。どうか、お願い。 『白の涙』を――――――――――」
(『世界』の想い…?)
 シセンの言葉に疑問を持ったその時、ルナはあの風に包まれていた。突然の事に、驚き、もがく。 そして身動きをとろうとして、『それ』に気付いた。
(?)
 ルナは、風だけではない、別の暖かい『何か』にも同時に包まれていた。
 心が落ち着くような、安らぐ感じ。自然と強張[こわば]っていた力が抜ける。
 あたたかいあたたかい、大きな……



 目を開けると、レイ・ナンシェにひざまくらをされていた。
 不確かな空間で、『世界』が目に入る。起き上がり、見回すと、 他のシャーレたちも傍に来ていた。
「あたし…」
「同調したのね」
 レイ・ナンシェがやさしい笑みを向けていた。
「今のが、同調?」
 ふわふわと、夢を見ていたような感じ。けれど臨場感[りんじょうかん]はものすごくあって、 夢とは思えない体験。夢のような、そうでないような。ここが特殊な空間の所為[せい]か、 区別がつかなくっている。
 戸惑うルナに、レイ・ナンシェは、ええ、と頷[うなず]いた。
「共鳴なんかよりすごかっただろ? 『世界』の記憶を感じれるんだからさ」
 クレイは、まるで自分のことのように嬉しげに言って、にっと笑った。
「『世界』の記憶?」
 今のが『世界』の記憶、『世界』が見てきたもののひとつだというのだろうか……
 自分が拾われる瞬間すら――――――――?
 ルナが『世界』を見ると、彼女はただ、儚[はかな]げに微笑んでいた。



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